玉松操碑 碑文の大意
 従五位玉松操氏が亡くなって六年,右大臣岩倉公爵は顕彰碑を京都東山の霊山に建設しようと計画した。公爵の側近である修史館五等掌記樹下茂国がわたし,すなわち修史官一等編修官川田剛(甕江)のところへ来て,岩倉公の碑文執筆依頼を伝えた。言うことには,公爵と玉松氏は実にしっくりと気の合った主従であった。公爵が維新前のことを話す時はかならず玉松氏の功績を賛美し,涙を流すに至るのが常である。岩倉公は維新の元勲で宰相の地位におられる。だから天下の才能ある者がはせ参じることには限りがない。しかし中でも玉松氏と意気投合したことは以上のとおりである。
 玉松氏は名は真弘,通称操。従四位下侍従山本公弘の第二子である。若くして醍醐寺に入り僧侶となり猶海と称し,大僧都法印に任じられた。寺内僧侶の規律を改革しようとして同僚から排斥されたので,髪を伸ばして還俗し山本毅軒と称し,それから姓を玉松と変えた。玉松氏は人に知られることのない隠遁生活に入ったが,心には憂国の心を抱き朝廷の衰微を嘆き,朝廷の恢復を遊説して廻った。和泉国に行き,願泉寺に滞在したことがあった。そこで尊王の大義を寺の僧に説き還俗して運動することを勧めたが,従われなかった。近江坂本に隠れ住み,(日吉大社神官で岩倉の側近)樹下茂国と交際した。
 当時幕府の失政で日本中が騒然としていた。岩倉公は朝廷から斥けられ北山岩倉村にわび住まいをしていたが,ひそかに見込みのある者を身辺に招いていた。樹下茂国は玉松氏を有望な者として推薦した。公は一見しただけでその人物にひかれ,玉松氏を腹心にしたのである。
 慶応3年,王政復古が宣言され,摂政関白の制度が廃止され総裁・議定・参与三職が設置されるなど大変動に際し,玉松氏は岩倉公の腹心としてこれらの変革を主導した。天皇が東京へ行幸し,官軍が進軍すると,詔勅や辞令などの文書を次から次へ書かなければならなかった。玉松氏が筆を手にするとたちどころに文章が完成し,人はみなその文のりっぱなことに敬服するのであった。
 明治元年,内国事務権判事に任じられ皇学所を管掌した。翌2年正月19日,特例をもって公家の列に加えられ従五位下に叙された。その翌年に明治天皇の侍読に任じられ代々250石を賜ることになったが、まもなく官界から隠退した。明治5年2月甥山本真政の子の真幸を養子とし家を継がせた。2月15日没。文化7年3月17日に生まれ、没した時六十三歳。京都清浄華院に葬られた。
 玉松氏は欲が少なく,粗末な衣類を着,粗末な食事をとり,妻も妾のなかった。若いころから仏典を勉強し,国書や漢籍にも詳しく,天文算数にも通じていた。しかしその志は天下国家にあり,本を書いて名を売ることを嫌った。だから生前に作った文章はその原稿が残っていない。岩倉公に知られてから,公が玉松氏を評したことがあった。「博識多才で人とたやすく妥協しないという点で,わが友真弘のような者は見たことがない」と。玉松氏もまた公のことを語り「「身をささげて奉仕する」ということは文字で見るだけだったが、岩倉公その人の事だということを知った」と。この両人の一致協力は普段の交友にもあらわれている。まして政治の舞台で互いに協力しあったからこそ大事業をなしとげることができたのです。
 わたし(筆者甕江川田剛)は修史館に奉職するからには,隠れた偉業を世に知らしめることも職分だと考える。そこで不才を顧みず執筆した次第である。【銘略】