忠僕重助碑

HI182

ちゅうぼくじゅうすけのひ
石碑(0029449)石碑周辺(0029450)

 大槻重助(1838〜1893)は清水寺の勤王僧月照に仕え,月照が安政の大獄で薩摩へ避難した時も同行した。安政5年月照が西郷隆盛とともに薩摩潟に投身し亡くなったあとは帰京したが,捕らえられて半年ほど下獄した。のち月照の墓を守護し供養をおこたらず,忠僕と称された。清水寺境内の忠僕茶屋は子孫の営むところであるという。この碑は重助を顕彰するために旧薩摩藩の有志により建てられたものである。

所在地東山区清水一丁目(清水寺内)
位置座標北緯34度59分43.0秒/東経135度47分03.3秒(世界測地系)
建立年1899年
建立者
寸 法高185×幅80×奥行60cm
碑 文
[東]
忠僕重助碑
[西]
大槻重助丹波国何鹿郡綾部村字高津人自少事清水寺月照上人上人愛其忠実樸」
直毎奔走   王事出入縉紳常従其後安政戊午上人與予及西郷南洲倶走西国重助」
亦従焉時年二十及上人與南洲相抱投海重助帰京下于六角獄半歳餘見赦厥後居」
于上人碑側守香火者三十有餘年如一日以明治二十六年四月六日歿享年五十六」
越八年南洲弟西郷侯及予與同志謀建石於成就院内以表其忠侯自書碑面字使予」
記于碑陰嗚呼重助一寺僕耳遭遇変故大節毅然出入死生操持益堅自少至老事死」
如生世所罕見可以大伝也当時同事之士前後凋落殆尽而予白首頽然猶存于万死」
之餘俯仰今昔不禁感慨涕零也乃略敍事由以*後人
明治三十二年四月
                     枢密顧問官正三位勲一等子爵海江田信義撰      淡海弘書
碑文の大意ここをクリック
調 査2014年6月26日
備 考西面碑文に剥落箇所があり寺田貞次『京都名家墳墓録』(1922年文華堂刊)および横山正行編『清水寺の信仰 縁起と石文』(1988年機関紙共同出版刊)収載碑文により補った


碑文中「*」字


位置図
位置図

上へ

[HOME]