忠僕重助碑 碑文の大意 |
大槻重助は丹波国何鹿郡綾部村字高津の人。若いころから清水寺月照上人に仕えた。上人は重助の忠実素朴な人がらを愛し,尊王運動で身分ある人々に接触する時には常に重助が従った。安政戊午の年(5年)に上人とわたし(碑文撰者海江田信義事有村俊斎)と西郷南洲(隆盛)はともに九州へ落ちのび,重助もこれに従った。この時重助ははたちであった。上人と西郷南洲がともに投身したあと,重助は帰京し半年ほど六角獄舎に入れられた。その後30年以上にわたり上人の墓を守り供養を絶やさなかった。明治二十六年四月六日没,享年五十六。重助の八回忌にあたり,西郷南洲の弟侯爵西郷従道とわたしは,同志と碑を成就院内に建立し,其の忠節を顕彰しようと企画し,西郷侯は碑のタイトルをみずから書き,碑文をわたしが執筆することになった。 重助は寺の下男にすぎないが,維新の変革に遭遇し,節を守り毅然として危難にあたり,その節操はますます堅固なものになった。そして月照が亡くなった若いころから没するまで,生者に仕えるようにその供養を続けた。世にまれな忠義であり後世に伝えなければならない。 維新の際の同志はみな世を去ったのに,わたしは髪がまっ白になりながらかろうじて生を保っている。その頃のことを思うと涙を禁じえない。ここに重助の事を略述し後世に伝えようとするものである。 |