漏世公子及寿芳夫人遷墓碑HI159 |
ろうせいこうしおよびじゅほうふじんせんぼのひ |
漏世公子は豊臣秀頼の子国松(1608?〜1615)のことで,法名の漏世院殿雲山智西大童子からとった称。寿芳夫人は豊臣秀吉の側室松の丸殿(?〜1634)のことで,法名の寿芳院殿月晃盛久からとった称。 国松は元和元(1615)年5月8日の大坂落城のあと,家臣田中六郎左衛門と乳母の手によって逃れ,伏見に潜居したが発見され,京都六条河原で処刑された。祖母淀君のいとこでもある松の丸殿が哀れみ,国松を京都寺町の誓願寺中に葬った。松の丸殿は誓願寺再興時の施主であり,晩年は寺内に住んだことから自分の墓も国松の墓と並んで建てさせた。 明治に至り新京極の開設など近辺の環境悪化を理由に,明治44年秀吉ゆかりの現在地に改葬した。この改葬の経緯を記したのがこの碑である。 |
所在地 | 東山区今熊野北日吉町(太閤坦) |
位置座標 | 北緯34度59分19.9秒/東経135度46分55.1秒(世界測地系) |
建立年 | 1911年 |
建立者 | (遷墓)委員会 |
寸 法 | 高210×幅94×奥行15cm |
碑 文 | |
[西] | |
漏世公子及寿芳夫人遷墓記 | |
公子名国松右大臣豊臣公之子也生母成田氏大阪城陥公薨公子年甫八歳 | |
與傅田中六郎左衛門及乳母某匿伏見徳川家康捕之乳母固称己子請命不 | |
許遂歿於六条磧六郎殉焉実元和元年五月二十三日也寿芳夫人収葬之於 | |
京都誓願寺中法謚曰漏世院雲山智西夫人名龍子京極高吉女美而貞淑被 | |
寵於豊国公寛永十一年九月朔卒謚曰寿芳院殿月晃盛久葬於公子墓側蓋 | |
従其志也夫大阪之亡也諸侯皆遺義趨利無顧旧恩者而夫人独以一婦人不 | |
屈威武能尽礼於公子可謂義烈矣明治革新後商買多移居夾墓余深憂其地 【「買」字ママ】」 | |
陜隘囂塵祀事難行且懼受狂暴慢侮請官遷墓於東山豊国公廟域嘱京都内 | |
貴甚三郎君董督其事君素好義常傷公子不以寿終而欽夫人之節烈也喜諾 | |
之尽力経営今茲辛亥十月四日備礼遷新壙於是英霊永得所安而祭祀可行 | |
無復受侮之虞也余因刻其由於石以建墓左云 | |
明治四十四年十月 | |
高吉十一世孫子爵京極高徳謹撰 山田得多敬書 | |
[東] | |
委員長 内貴甚三郎 | |
委員 田中義忠 | |
加藤賢成 | |
安田時秀 | |
石工 芳村茂右衛門 | |
碑文の大意 | ここをクリック |
調 査 | 2012年6月13日 |
備 考 | 現在国松・松の丸殿両人の墓碣として二基の五輪塔が並んでいる。向って右(東側)の高約320cmの五輪塔が松の丸殿で,最下段表面に「寿芳院殿月晃盛久/(梵字阿字)/佐々木京極女為二世安楽」と記す/向って左(西側)の高130cmの五輪塔が国松で,最下段表面に「漏世院殿雲山智西大童子」と記す/国松の墓石は明治31年に新たに作ったもので裏面にその経緯が記されている |
位置図 | |