所在地 | 東山区新瓦町東組(三十三間堂南大門東) |
位置座標 | 北緯34度53分12.7秒/東経135度46分21.8秒(世界測地系) |
建立年 | 2010年 |
建立者 | NPO法人京都歴史地理同考会 |
寸 法 | 高110×幅18×奥行15cm |
碑 文 | |
| [南] |
| 坂本龍馬 |
| この付近 など土佐志士寓居跡 |
| 北添佶摩 |
| [東] |
| 大仏(方広寺)旧境内南限 |
| [西] |
| 池田屋事件もうひとつの舞台地 |
| [北] |
| 二〇一〇年四月 |
| 特定非営利活動法人 京都歴史地理同考会建之 |
| 名古屋市瑞穂区 古橋明子寄贈 |
| [解説板] |
| 当地東山には、ながく「大仏」がありました。豊臣政権が造営し、徳川政府が維持したもの」 |
| です。その寺の名を、江戸時代以後、方広寺といいました。 |
| 現在も同寺は存在しますが、当時はいまと比較にならない広さで、三十三間堂(蓮華王院」 |
| 本堂)や法住寺、養源院などもその境内に含まれていました。現在地はその南限にあたります。」 |
| 蓮華王院南大門(正しくは「大仏南門」)と太閤塀はそのなごりです。その前(南側)の道も、」 |
| 一般には塩小路通とよびますが、「大仏南門通」とも別称されています。付近にある「大仏」 |
| 変電所」の名もそれゆえです。 |
| 幕末期、この大仏南門近くに、坂本龍馬ら土佐出身の志士が住んでいました。ここで龍馬」 |
| は、妻楢崎龍(のち鞆。龍馬の死後再婚して西村ツル)と出会うことになります。たまたまそ」 |
| の母貞と末妹君江が同所で賄いをしていたからです。 |
| このことはお龍の晩年の回想録「反魂香」に記録されています。すなわち「大仏南の門の今」 |
| 熊の(野)道」の河原屋五兵衛(瓦屋の五郎兵衛の意か)の隠居所を借りて、「中岡慎太郎、元山」 |
| (本山)七郎(北添佶摩)、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(大利鼎吉)、菅野覚兵衛(千屋」 |
| 寅之助)、池倉太(内蔵太)、平安佐輔(安岡金馬)、山本甚馬、吉井玄蕃、早瀬某、等」と」 |
| 同居していたといいます。 |
| が、これが事実かどうか、ながくわかりませんでした。これを裏付けたのが、お龍の回想にも」 |
| 出てくる北添佶摩の書簡でした(元治元年〈1864〉5月2日付、母宛)。そこに「私儀は此節は、」 |
| 洛東東山近辺瓦町と申す処へ居宅を借受け、外に同居の人五・六人も之れあり不自由なく」 |
| 相暮し居候」とあるからです。当地の南向かいの地名はいまも「本瓦町」で、北添が龍馬ら」 |
| と暮らしていた地であったにちがいありません。 |
| 当地は同元治元年6月5日、新選組を有名にした池田屋事件の際、龍馬や北添らの住居 |
| であったため、京都守護職などの役人に踏み込まれます。龍馬らは不在でしたが、貞や君江が連行」 |
| されました(まもなく釈放)。ちなみに北添はこの事件で戦死します。その後の8月初旬、帰っ」 |
| てきた龍馬は、お龍と青蓮院塔頭金蔵寺(現東山区三条通白川橋東入ル南側)で内」 |
| 祝言(内々の結婚式)を挙げることになります。 |
| 以上の理由から、当地を重要な幕末史蹟として建碑し、顕彰するものです。」 |
| 2010年5月 |
| 歴史地理史学者 中村武生 |
調 査 | 2010年5月28日 |
備 考 | 解説板は碑の背後の壁面に掲げられ横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト |