歌舞練場碑HI111 |
かぶれんじょうひ |
都をどりは明治5(1872)年の第一回京都博覧会の附博覧として,祇園新地橋東入南側の松の屋で初めて開催された。翌年には常設会場として祇園甲部歌舞練場が四条花見小路下る西側の成住院跡に建てられ,大正2(1913)年に同東側に移転している。この石標は,この大正2年新築移転した甲部歌舞練場の所在地を示すものであるとともに,大正4年の大正天皇即位大礼において,皇族・外国使節・高官を招いた京都市主催の祝宴がこの地(八坂倶楽部)で開催されたことを記念するものである。なお,歌舞練場は昭和10(1935)年にさらに東側の現在地に移転している。 |
所在地 | 東山区祇園町南側(弥栄会館前) |
位置座標 | 北緯35度00分05.4秒/東経135度46分30.0秒(世界測地系) |
建立年 | 1917年 |
建立者 | |
寸 法 | 高197×幅170×奥行48cm |
碑 文 | |
[南] | |
八坂歌舞場碑【題額】 | |
八阪歌舞場碑記 | |
延暦之朝奠都平安千有余年■明治二年 車駕東幸 | |
王公百官従之而去士商来往幾■■茲居民生業寝衰府 | |
知事長谷信篤憂之力図挽救四年■■開博覧会五年春 | |
復開之並設歌舞於八阪参事槙村正直新作歌曲使衆妓 | |
按曲斉舞以助其盛六年始築場演奏歌舞歳以為恒今之 | |
都踊即是也中外士女来観甚衆人或謂此■■免衰颯都 | |
踊亦与有力焉*経年久歌舞場漸朽壊四十五年飜築宏 | |
大輪奐比前有加大正四年十月 今上行即位礼京都 | |
市民恭設賀筵於此邀請親王大臣外国賓使縉紳諸公挙 | |
觴以称 聖寿万歳歌舞場諸人欲建碑以紀之謁■作 | |
文予職在方岳固以宣化興風為任歌舞場之采有関於此 | |
都盛衰興否所不必問雖然其歴来免久矧当 国家大典 | |
市民用為公宴之場其光栄可以伝焉善興国之民気象漲 | |
溢趨好華美有不可以常度律之者都踊之興亦可察当時 | |
情勢已惟能鳴熙朝之盛不必以女楽斥之若夫防範弊風 | |
開導善俗則従政者之所当務予豈敢忽諸乎哉 | |
大正六年四月京都府知事正四位勳二等木内重四郎撰 | |
正七位富岡百錬題額長尾甲書 | |
[東] | |
都踊創設者 | |
杉浦治郎右衛門 元女紅場取締 田村真七 中路キク | |
井口彦右衛門 田畑興平 藤本清右衛門 辻 キク | |
井上興三郎 塚本嘉右衛門 岡本宗吉 牧野カメ | |
武田仙助 吉岡太兵衛 中西辰次郎 楳田ミネ | |
浅野庄兵衛 岩井清七 吉岡ユカ | |
青木太兵衛 元女紅場係 交野寅蔵 塚本カヨ | |
皆川定也 小泉為次郎 吉田鎌之助 遠藤エイ | |
小倉佐吉 駒宮太三郎 葉田平三郎 堀井テイ | |
上田茂兵衛 加田万吉 芝池栄吉 桜井ヤス | |
太田駒之助 三浦伊兵衛 坂口芳三郎 岩井サト | |
上田清吉 中尾善兵衛 教師 | |
澤 宣平 上田清次郎 木村マサ | |
加藤久兵衛 枡見定次郎 高橋ヤ | |
鳥居新太郎 歌舞会代表者 平岡勝次郎 吉田■■ | |
山本五兵衛 辻村多助 片岡芳松 小村シヅ | |
山内喜市 田畑篤次郎 奥田熊吉 北村ハツ | |
井上周造 金岩 鍛 中路弥市 田中タキ | |
佐野忠次郎 定永儀助 尾田木ユウ | |
教師 岩井徳三郎 太田ミヨ | |
片山春子 穂北孝次 村井キ■ | |
杵屋庄三 佐々木寅次郎 辻 ■■ | |
■田■■ 津田栄次郎 酒井■■ 平安 新寿山刻 | |
碑文の大意 | ここをクリック |
調 査 | 2003年11月25日 |
備 考 |
碑文中「*」字 |
位置図 | |