歌舞練場碑 碑文の大意
 延暦年間平安京に遷都し千年以上がたった。明治2(1869)年,天皇が東京へ行かれた。公家や官僚もついていったので,京都へ来る人がめっきり減り,京都市民の産業は次第に衰えていった。京都府知事長谷信篤はこのことを心配し,京都の経済力挽回に努めた。明治4(1871)年に博覧会を開き,翌年春にまた開催した。あわせて歌や踊りのイベントを八阪の地で開いた。京都府参事槙村正直は舞妓・芸妓に新作を歌い踊らせにぎわいを添えた。
 明治6(1873)年,始めて専用の劇場を作り上演させ,毎年の恒例とした。現在の「都をどり」の濫觴である。いたるところからたくさんの見物客が来て,京都が衰亡を免れたのには都をどりも貢献したといわれるほどであった。しかし,年数がたち,最初の劇場も次第に老朽化したので,明治45(1912)年,規模を大きくして現在の歌舞練場を新築したのである。
 大正4(1915)年10月,今上天皇(大正天皇)の即位大礼が京都で挙行され,京都市ではこの歌舞練場に祝宴を催し,内外の賓客をもてなした。このことを記念し,石碑を建てることが計画され,歌舞練場の関係者がわたし(筆者木内重四郎)に碑文を依頼した。わたしはは重職にあり,文化政策も任としている。歌舞練場の立派さが京都の発展に貢献しているかどうかはさて措き,その歴史を知る人も少なくなってきた。まして国家の大イベントで公式祝宴の場になったことは後世に伝えなければならない。
 登り坂になる国民はどうしても華美に赴くものである。都をどりが華やかでぜいたくであるからといって非難してはいけない。明治初めの情勢下のしからしめたものである。この治まった天下を象徴するものであれば、女性の踊りといってもいちがいに排斥するものではない。悪い習俗を防止し、善い暮らしを教えるということにいたっては,また捨てたものでは決してない。