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明治25年5月頃から,京都実業協会が立案。京都市は参事会から3人,市会から4人の紀念祭委員を選出し,紀念祭の開催と第四回内国勧業博覧会の誘致に向けて,国に協力を求めました。 その結果,有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁親王(たるひとしんのう,のち小松宮<こまつのみや>彰仁親王<あきひとしんのう>と交替)を総裁にむかえ,会長に近衛篤麿,副会長に佐野常民が就任して,平安遷都千百年紀念祭協賛会を設立。国務大臣も関与する国家的な行事となりました。さらに寄附金を府県郡市長や地方名望家に委嘱して,全国から募りました。 まず平安宮朝堂院正殿の大極殿(だいごくでん)を模した神殿などが岡崎(現左京区)の地に造営され,桓武天皇を奉祀する平安神宮が明治28年3月に完成。官幣大社に列せられました。 紀念祭は,勧業博覧会開催中の4月30日に明治天皇を迎えて催される予定でしたが,諸事情で延期されることとなり,10月22日から3日間挙行されました。10月22日は,延暦13(794)年,桓武天皇が新京(平安京)に入った日です。 紀念祭の余興として,25日に行われた時代行列は,翌年から平安神宮の時代祭となり現在に続いています。 |
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![]() 琵琶湖疏(びわこそすい)水完成後の京都における最大の問題は,平安遷都千百年紀念祭の挙行,第四回内国勧業博覧会の開催,京都舞鶴(まいづる)間鉄道の建設,という3つの事業,いわゆる三大問題を達成させることでした。京都の政財界はこれを京都の近代化の好機ととらえ,その実現に尽力しました。 また,紀念祭や博覧会で海外や全国各地から京都を訪れる観光客のために,寺社は特別拝観を実施して建物や宝物を一般公開しました。近代の観光都市京都という点においても,紀念祭の開催は重要な画期となりました。 |
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紀念祭の京都府委員湯本文彦(ゆもとふみひこ,1843~1921)は,歴史学者として平安京全域の実測調査を実施しました。また,その成果を取り込んで,はじめての京都通史『平安通志』(へいあんつうし),京都の神社・仏閣・名所旧跡の解説書『京華要誌』(けいかようし)などを編集しました。 湯本は鳥取県出身の歴史学者で,明治21(1888)年から京都府庁に勤務して,数多くの歴史調査に従事しました。紀念祭では企画・立案から携わり,京都府の歴史編纂事業の発展にも寄与しました。また,京都帝室博物館学芸委員などを兼ねたのち,『鳥取藩史』の編纂長に就任しています。 |
![]() 平安遷都千百年紀念祭を行うにあたって,桓武天皇ゆかりの寺社や名勝旧跡の修繕・保存が京都市費から補助されました。対象となったのは,31件で,熊野神社拝殿(現左京区聖護院山王町)・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)墓(現山科区勧修寺東栗栖野町)・東福寺山門・神泉苑・長岡京遺跡などがあります。 |
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平安神宮は,明治28(1895)年,平安遷都千百年紀念祭に際し,京都市民の氏神として創建されました。祭神は桓武天皇(かんむてんのう,737~806)と孝明天皇(こうめいてんのう,1831~66)。 紀念祭協賛会が,桓武天皇の御霊を奉祀する神社の創建を請願し,明治27年,官幣大社に列せられ,平安神宮と名づけられました。 平安宮朝堂院正殿の大極殿と応天門(おうてんもん)を模造縮小した拝殿と大鳥居正面の二層楼門などが建てられ,同28年3月に完成。建築家木子清敬・伊東忠太が設計と工事の指揮・監督にあたりました。 孝明天皇没後75年目の昭和15(1940)年,孝明天皇を合祀するため,社殿が新築・改築され,西本殿に孝明天皇が,東本殿に桓武天皇が祀られました。時代祭神幸列の2基の鳳輦(ほうれん)は両祭神を奉じています。 平安神宮神苑は,造園家小川治兵衛(7代目)の手によって築かれた約6000坪の回遊式庭園です。昭和50年,国の名勝に指定されました。苑内には,『源氏物語』藤袴にちなんだフジバカマなど,古典に登場する草花をはじめ,様々な植物が植えられ,数多くの鳥や魚が生息しています。 池水は琵琶湖疏水から地下トンネルを通して取水しているため,琵琶湖に住む珍しい生物が生息して,動植物学的にも貴重な場所となっています。 |
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![]() 明治28(1895)年,平安遷都千百年紀念祭の事業の一つとして,湯本文彦の提案による平安京実測事業がなされ,羅城門の位置が決められました。京都市参事会によって「羅城門遺址」の石標が,その地に建てられました。 その決定の方法は,延暦15(796)年の創建以来,位置が不動だとされた東寺(とうじ)の南門を基準点として,そこから曲尺(かねじゃく)で計測して,九条通の南端の位置を決定し,さらに計測して朱雀大路の中心,すなわち羅城門の中心を決めました。 |
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明治28(1895)年,平安遷都千百年紀念祭にあたり,湯本文彦は平安京の実測を行い,大極殿の位置をこの地に定め,京都市参事会が「大極殿遺阯」の石標を建てました。 大極殿とは平安宮朝堂院の正殿で,即位などの国家的儀礼が行われた場所です。貞観18(876)年,創建後初めて焼失。再三の被災で修復再建が繰り返されましたが,治承元(1177)年の大火で焼失して以降,再建されませんでした。 なお,最近の発掘調査により,明治28年に建てられた石碑の場所は大極殿の北側の回廊のあった場所で,大極殿の中心部は千本丸太町交叉点附近と判明しています。現在,千本丸太町交叉点西北および南東角にくわしい説明板が設置されています。 |