琵琶湖疏水
都市史27

びわこそすい
印刷用PDFファイル
 
  【目次】
    知る

    歩く・見る
※画像をクリックすると大きい画像が表れます

   知る

疏水計画前史

 「疏水」(そすい)という言葉は,水路を開いて水を通すことを意味しますが,京都では疏水といえば琵琶湖疏水を指します。

 京都は内陸部に位置するため,せっかく琵琶湖を利用して北陸地方から運んできた物資を,大津で牛車に積みかえていました。水運による大量輸送に比べコストがかかるので,琵琶湖と京都を結ぶ水路建設は長年の懸案でした。

 疏水計画は江戸時代からありました。古くは寛政末(1800)年頃の疏水計画図が残っています。ついで天保12(1841)年壬生村の農民が京都町奉行所に請願した計画,文久2(1862)年豊後国(大分県)岡藩主中川久昭が朝廷に申請した計画,明治5(1872)年下京の住人が京都府庁へ請願した計画,明治7(1874)年に滋賀県が立案した外国資本を導入する計画等があります。

琵琶湖疏水とは?

 明治2(1869)年,東京遷都に直面して,京都の地位低下を怖れた京都の人々は,水路開発による都市機能の再生を願って,疏水計画を立てました。当時の京都府知事は槙村正直(まきむらまさなお)でしたが,後任の北垣国道(きたがきくにみち,1835〜1916)の主導で事業が推進されることになりました。

 その計画は,通船だけではなく,多目的なものになりました。第1は運輸のため,第2は灌漑のため,第3は動力源確保のため,第4は飲料水確保のためでした。

 明治14(1881)年から予備調査を始め,明治18(1885)年6月に起工。明治23(1890)年4月,第一疏水第一期工事(夷川<えびすがわ>の鴨川合流点まで)が完成しました。一方,鴨川合流点から伏見墨染のインクラインまでは,明治25年11月に起工,27年9月に完成しています。

 第一疏水は滋賀県大津市三保ヶ崎(みほがさき)で琵琶湖より取水し,三井寺の山下を貫き,山科盆地北部山麓を通り,蹴上(けあげ)に出て西に向かい,鴨川東岸を南に下って伏見に至り宇治川に合流します。全長約20キロメートルです。

 分線は第一疏水と同時期に着手されました。主に灌漑のためで,蹴上から分岐して北白川,下鴨を経て堀川に至り,全長約8.4キロメートル。

 起工当初は通船が第一目的でしたが,工事なかばで水力発電に着目し,日本最初の水力発電所を設け,市内電車の動力や工業用の電力を供給するなどの計画変更がなされました。

 明治18(1885)年,府庁内に疏水事務所を設け工事を進めましたが,事業主体は上・下京区にありました。明治22年の市制施行後は,京都市に引き継がれました。総工費は125万円で,当時の内務省年間予算額が100万円前後であることを考慮すると,その巨額なことがわかります。

 財源は,上下京区有の産業基立金(明治天皇が東京遷都の際に京都に下賜したもの),府や国庫からの下渡金,市債,寄附金によりました。不足分を補うために地価割・戸数割・営業割の三種類の税が市民に課せられました。

疏水工事は空前の大事業であったため,中央政府の中でも賛否が分かれました。滋賀県や大阪府でも上下流の利害がからむ反対運動があり,両府県に対し予防工事費が支出されました。同じ理由で京都府内各地でも災害対策をめぐる建議や陳情が相つぎました。

工事の特徴は?

 工事は北垣知事の下,工部大学校(東京大学工学部の前身)を出たばかりの田辺朔郎(たなべさくろう,1861〜1944)を設計・指導者として抜擢し,日本人の力だけで施工されました。重要な工事は外国人技師にゆだねていた時代にあって画期的なことでした。

 延長2436メートルもある滋賀県側の長等山(ながらやま)疏水トンネルは,当時としては日本で最長のものでした。山の両側から掘るほかに,山の上から垂直に穴を掘り工事を進める竪坑方式を採用して,工事の促進をはかりました。

疏水の影響

 明治24(1891)年に疏水を利用する蹴上発電所が設けられ,これにより工場動力の電化がはかられ,明治28(1895)年には,市街電車を全国にさきがけて走らせました。

 疏水完成により高瀬川曳船人足(たかせがわひきぶねにんそく)の失業問題,南禅寺附近掘鑿工事における井水枯渇問題,用地買収をめぐる裁判など派生的な社会問題も生じました。

 その後,水力発電の増強と水道用水確保のため,明治41(1908)年,第二疏水の工事に着手,同45年に完成しました。これは,第一疏水の北に並行して建設され,蹴上で第一疏水と合流。全長7.4キロメートル。水道源として汚染を防ぐため,全線トンネルになっています。

現在の疏水

 疏水は現在も京都の上水道源としての役割を果しています。夷川管理棟では,昭和58(1983)年以降,疏水遠隔監視制御設備を整備して,集中的に流量管理をしています。昭和初年まで続いた舟運は廃止され,水路閣やインクラインは,歴史的建造物として観光名所となっています。

上へ


   歩く・見る

琵琶湖疏水記念館 左京区南禅寺草川町

 京都市立。琵琶湖疏水についての理解を深めてもらおうと平成元(1989)年に開館しました。疏水計画や難事業の様子,水力発電や電車,インクラインや水道等の展示がされています。

南禅寺境内水路閣(すいろかく) 左京区南禅寺福地町
南禅寺境内水路閣

 京都市有の水路橋で琵琶湖第一疏水分線の一部。京都市指定史跡。明治22(1889)年完成。

 田辺朔郎の設計。半円アーチ式煉瓦造。全長93.1メートル,幅4.06メートル,水路直径2.4メートル,高さ13メートル。

 2基の橋台,13基の橋脚が大小の連続アーチを形成して,その上の水路を毎秒2トンの水が流れています。疏水沿線には社寺が多く景観に配慮して造られました。

蹴上インクライン(傾斜鉄道) 左京区南禅寺
蹴上インクライン

 蹴上インクライン(incline=傾斜の意味)は,疏水の水で発電される電気を動力源とした一種の鉄道です。京都市指定史跡。

 蹴上船溜り(ふなだまり)と南禅寺船溜り間の,36メートルの高低差がある急斜面を船が安全に通過できるように2本のレールを敷き,船は車輪のついた運送車に乗って上下しました。

 明治20(1887)年5月着工,明治23年4月完成。営業運転開始は,蹴上発電所完成後の明治24年12月です。

 昭和23(1948)年11月休止となり,昭和48(1973)年にはレールも取り外されました。しかし,市民の要望で,昭和52年に復元されました。南禅寺から蹴上までの坂道に2車線のレールを敷設し,台車に30石船を乗せて往時の姿を再現しています。

疏水隧道洞門の書

 疏水の隧道(ずいどう,トンネル)は,歴史的環境に配慮した煉瓦造りで,その隧道の洞門には,工事が国家レベルの大事業であったことを示すように,著名人が筆をふるった書が彫刻されました。

第一隧道東口 伊藤博文「気象万千」
第一隧道西口 山県有朋「廓其有容」
第一隧道内壁 北垣国道「宝祚無窮」
第二隧道西口 西郷従道「随山到水源」
第二隧道東口 井上 馨「仁以山悦智為水歓」
第三隧道入口 松方正義「過雨看松色」
第三隧道西口 三条実美「美哉山河」
蹴上合流隧道北口 田辺朔郎「藉水利資人工」
第二疏水取入口 久邇宮邦彦親王「万物資始」
第二期蹴上発電所入口 久邇宮邦彦親王「亮天功」
蹴上(けあげ)発電所 東山区三条通粟田口鳥居町
蹴上発電所

 赤煉瓦造りの発電所が,ウェスティン都ホテル前に残っています。明治24(1891)年に造られた日本最初の水力発電所です。当初は80キロワットのエジソン式直流発電機2台が設置されました。現在も関西電力蹴上発電所として発電が行われています。

 創業時の建物は,その後の改修で面影を留めていませんが,第二期発電所の建物は保存されています。

蹴上浄水場 山科区厨子奥花鳥町

 蹴上発電所の南,華頂山(かちょうさん)麓にあります。第二疏水工事の一環として,明治45(1912)年に完成した急速濾過式の浄水場で,疏水の水を上水に清浄し,一般家庭や工場に配水する京都市営五浄水場の一つです。

 華頂山を背景とした場内は,ツツジやサツキの植込みも美しく,花の季節には市民に場内が開放されます。場内台地上に与謝野晶子(よさのあきこ)の歌碑「御目ざめの鐘は知恩院聖護院いでて見たまへ紫の水」があります。

蹴上ダム(船溜り<ふなだまり>)・蹴上インクライン広場 左京区
田辺朔郎銅像(左)と顕彰碑(右)

 蹴上浄水場の東,日向大神宮参道に面しています。ここで第一と第二疏水の水が合流し,水は浄水用と発電用に分けられ,一部は閘門(こうもん)によって分線に流されています。最初は疏水運河を上下する船を留め,水運調整を計った所でした。京都市によって復元整備され,一帯は公園になっています。

 明治35(1902)年,工事犠牲者慰霊のため,田辺朔郎がこの地に自費で弔魂碑を建立しました。「一身殉事萬戸霑恩」(いっしんことにじゅんじばんこおんにうるおう)の銘と,裏面に犠牲者17名の氏名が刻まれています。

 この地には田辺朔郎の還暦記念として大正12(1923)年に建てられた顕彰碑があります。もとは賀茂川と高野川の合流点に建てられましたが,戦時中の河川改修工事にともない現在地に移されました。

 顕彰碑の横に,昭和57(1982)年,篤志家により田辺の銅像も建てられました。疏水工事当時の写真をもとに,右手に設計図を持った青年像です。

哲学の道 左京区鹿ヶ谷若王子町ほか

 第一疏水の分線ぞいには,桜・松・柳・梅・楓・山茶花(さざんか)など十数種にも及ぶ樹木15万本が植樹されました。

 東山西麓若王子神社(にゃくおうじじんじゃ)から銀閣寺に至る疏水端の道は,哲学の道とよばれています。哲学者西田幾多郎や文化人が愛し,瞑想にふけった所だということから名付けられました。


上へ