琵琶湖疏水とは?
明治2(1869)年,東京遷都に直面して,京都の地位低下を怖れた京都の人々は,水路開発による都市機能の再生を願って,疏水計画を立てました。当時の京都府知事は槙村正直(まきむらまさなお)でしたが,後任の北垣国道(きたがきくにみち,1835〜1916)の主導で事業が推進されることになりました。
その計画は,通船だけではなく,多目的なものになりました。第1は運輸のため,第2は灌漑のため,第3は動力源確保のため,第4は飲料水確保のためでした。
明治14(1881)年から予備調査を始め,明治18(1885)年6月に起工。明治23(1890)年4月,第一疏水第一期工事(夷川<えびすがわ>の鴨川合流点まで)が完成しました。一方,鴨川合流点から伏見墨染のインクラインまでは,明治25年11月に起工,27年9月に完成しています。
第一疏水は滋賀県大津市三保ヶ崎(みほがさき)で琵琶湖より取水し,三井寺の山下を貫き,山科盆地北部山麓を通り,蹴上(けあげ)に出て西に向かい,鴨川東岸を南に下って伏見に至り宇治川に合流します。全長約20キロメートルです。
分線は第一疏水と同時期に着手されました。主に灌漑のためで,蹴上から分岐して北白川,下鴨を経て堀川に至り,全長約8.4キロメートル。
起工当初は通船が第一目的でしたが,工事なかばで水力発電に着目し,日本最初の水力発電所を設け,市内電車の動力や工業用の電力を供給するなどの計画変更がなされました。
明治18(1885)年,府庁内に疏水事務所を設け工事を進めましたが,事業主体は上・下京区にありました。明治22年の市制施行後は,京都市に引き継がれました。総工費は125万円で,当時の内務省年間予算額が100万円前後であることを考慮すると,その巨額なことがわかります。
財源は,上下京区有の産業基立金(明治天皇が東京遷都の際に京都に下賜したもの),府や国庫からの下渡金,市債,寄附金によりました。不足分を補うために地価割・戸数割・営業割の三種類の税が市民に課せられました。
疏水工事は空前の大事業であったため,中央政府の中でも賛否が分かれました。滋賀県や大阪府でも上下流の利害がからむ反対運動があり,両府県に対し予防工事費が支出されました。同じ理由で京都府内各地でも災害対策をめぐる建議や陳情が相つぎました。
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