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京都において町組とは,道路をはさんで形成された町が集まって地域的に連合した自治組織です。16世紀初め頃に形成された原型が,拡大発展を経ながら明治元(1868)年まで続きました。 明治になり,従来の町組は解体・再編成させられ,新時代の行政組織に衣替えしました。これが町組改正で,この時できた町組が現在の元学区(もとがっく)の原型となりました。 |
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明治元年11月に京都府は次のように江戸時代の町組を大きく変えました。 (1)京都の上京(かみぎょう)・下京(しもぎょう)を上大組(かみおおぐみ)・下大組(しもおおぐみ)とする。それぞれに大年寄(おおどしより)を置いて組内の支配にあたらせる。大年寄は府知事が任命する。 (2)親町(おやちょう,古町<こちょう>)・枝町(えだちょう)・新町(しんちょう)の別を廃し,20か町を単位に上京何番組,下京何番組と呼称。組ごとに中年寄・添年寄各1名を設置。中年寄・添年寄は,任期1年で組内で公選され,交代で府庁にも勤務する。 この再編成で,二条通を境にして上大組(上京)を45の組,下大組(下京)を41の組に分けました。この再編成を第一次町組改正と呼びます。 ところが第一次町組改正では,江戸時代の町組が基本となり,町数の平均化などに不徹底がありました。そこで,明治2(1869)年,京都府は再び改正に乗り出しました。 三条通を境線に,平均町数を1組あたり26から27か町とし,上京が一~三十三番組,下京が一~三十二番組の計65の町組が成立。京都の新しい行政基盤となりました。これが第二次町組改正で,このとき確定した町組が現在の元学区(もとがっく)につながっています。 |
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![]() 明治初年,京都府が町組改正とともに,着手した大事業として小学校の建設があります。 そもそも京都では,江戸時代から漢学・国学・洋学や町人の道徳哲学である心学などの私塾や寺子屋の伝統が築かれていました。このような風土のなか,慶応3(1867)年,寺子屋を営む篤志軒八代目西谷淇水(にしたにきすい)が官立の教学所設立の建白を出しました。のちに二代目府知事となった槇村正直(まきむらまさなお)が強力に小学校建設を推進し,読書・習字・算術の稽古場として,一組に1か所の小学校建設を計画しました。 同時に京都府は,町組ごとに小学校と町組会所を併設する町組会所兼小学校の構想を立てました。 第二次町組改正が行われ,明治2年1月末に新しい町組が成立すると小学校建設は急速に進められました。日本で最初に発足したこの町組会所兼小学校を,一般に番組小学校(ばんぐみしょうがっこう)と呼びます。 明治2(1869)年5月21日の上京第二十七番組(柳池<りゅうち>)小学校と,下京第十四番組(修徳<しゅうとく>)小学校で開校式が行われました。その後,次々と開校し,明治2年内にすべての開校が完了しました。12月21日,最後に開校した小学校は,上京第二十八番組と二十九番組の(京極<きょうごく>)小学校です。ここは2組合同で1つの小学校を建設したので,町組全65に対して小学校数は64校となりました。 |
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多くの小学校は,地元有志の寄附や寺社の敷地の一部でまかなわれ,運動場もなく,民家とあまり変わらない大きさでした。教育は府独自の規則により,筆道,算術,読書の3教科を中心として行われました。 小学校は単に教育機関であるだけでなく,町会所であり,府の出先機関でもありました。警察・交番や望火楼を設置。塵芥処理や予防接種など保健所の仕事も担っていました。このように小学校は総合庁舎としての機能を果していましたが,その経費の一切は町組が負担していたのです。 |
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![]() 明治5(1872)年8月,政府はフランスやアメリカの制度にならった学制を発布しました。これにより大・中・小学校の区分が示され,行政区画とは別に人口600人を基準とする小学校区が定められました。 しかし,京都では大・中学校区は学制に従って編成しましたが,小学校については,これまでの行政単位としての町組即小学校区という方針を継続し,第何区小学校としました。さらに,区は明治12年には組,同25年には学区と改称。市制・町村制施行後も学区を維持しました。その間,小学校には漢字による名称が附けられ,それにともない学区も「乾隆学区」(けんりゅうがっく)のような漢字の名称になりました。 昭和16(1941)年に国民学校令により廃止されるまで,学区は単なる通学区域ではなく,独自の財源を持ち,教育経費を負担する自治団体でした。 戦後,小学校が一部で新制中学に転用され,小学校の通学区とそれまでの学区が完全に重ならないことになりましたが,学区は地域の社会福祉をはじめとする地域行政の核となり,京都独自の地域住民の自治単位として機能しています。これは「元学区」(もとがっく)と呼ばれています。 昭和45(1970)年以降,新設校が大幅に増加しましたが,ドーナツ化現象の進行と少子化の影響で,児童数が急激に減少するのに伴い,市内中心部では小学校の統合と廃止が行われました。 |
開智小学校の校舎を利用し開設。明治2(1869)年に創設された64の番組小学校を中心に,京都の教育の歴史を学校文化財(美術工芸品)と歴史資料によって紹介しています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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有済小学校の屋上には望火楼(火の見やぐら)が残されています。かつてはこのような望火楼が各小学校に設置され,学区内の消防の中心になっていました。 |
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![]() 明治2(1869)年5月21日に上京第二十七番組小学校が富小路通御池角で開校式が挙行されました。明治6年現在地に新築移転。これが柳池小学校(りゅうちしょうがっこう)です。昭和22(1947)年,新学制施行により,柳池中学校となり,平成15(2003)年4月,京都城巽中学校(じょうそんちゅうがっこう)と統合し京都御池中学校となりました。 また明治8(1875)年,校舎の一角に幼稚遊嬉場(ようちゆうぎじょう)が設けられました。これは約1年半程で閉鎖されましたが,昭和4(1929)年5月改めて幼稚園が開園。平成8(1996)年3月に閉園となりました。 これらを記念する石標が立てられています。 |
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![]() 明治25年に学区の統合が行われた。元学区で同じ名前が複数あらわれるのはそのためである。また下京三十三番組(弥栄)は明治2年の第二次町組改正直後,下京二十四番組から分離し下京三十三番組となった。
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