どんな事件
蛤御門(はまぐりごもん)の変は,禁門の変(きんもんのへん)・元治甲子の変(げんじかっしのへん)ともいい,元治元(1864)甲子年(きのえのねのとし)に起こりました。
前年の文久3(1863)年8月18日の政変で,長州藩は京都での地位を失墜しました。その後,長州藩は藩主父子の名誉の回復と京都から追放された尊王攘夷派公家7名の赦免を願いましたが許されず,さらに翌年6月5日には,池田屋事件で藩士多数が殺されました。
このような状況下,長州藩の勢力回復をねらい,三家老(福原越後・国司信濃<くにししなの>・益田右衛門介)が兵を率いて上洛,7月19日,会津・薩摩・幕府連合軍と京都御所(正確には現京都御苑<きょうとぎょえん>)蛤御門・堺町御門(さかいまちごもん)附近で戦い,長州藩は敗北しました。
京都の中心部が激戦地となったため,市中はたちまち猛炎に包まれ,民家や社寺などを焼き尽くす大惨事となりました。長州藩邸や堺町御門から出た火が,手のほどこしようもなく燃え広がるありさまを京都の人たちは「どんどん焼け」「鉄砲焼け」などと称しました。
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