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蛤御門(はまぐりごもん)の変は,禁門の変(きんもんのへん)・元治甲子の変(げんじかっしのへん)ともいい,元治元(1864)甲子年(きのえのねのとし)に起こりました。 前年の文久3(1863)年8月18日の政変で,長州藩は京都での地位を失墜しました。その後,長州藩は藩主父子の名誉の回復と京都から追放された尊王攘夷派公家7名の赦免を願いましたが許されず,さらに翌年6月5日には,池田屋事件で藩士多数が殺されました。 このような状況下,長州藩の勢力回復をねらい,三家老(福原越後・国司信濃<くにししなの>・益田右衛門介)が兵を率いて上洛,7月19日,会津・薩摩・幕府連合軍と京都御所(正確には現京都御苑<きょうとぎょえん>)蛤御門・堺町御門(さかいまちごもん)附近で戦い,長州藩は敗北しました。 京都の中心部が激戦地となったため,市中はたちまち猛炎に包まれ,民家や社寺などを焼き尽くす大惨事となりました。長州藩邸や堺町御門から出た火が,手のほどこしようもなく燃え広がるありさまを京都の人たちは「どんどん焼け」「鉄砲焼け」などと称しました。 |
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戦いは一日で終りましたが,9月19日朝,長州藩邸等から出火した火災による被害は,北は丸太町通,南は七条通,東は寺町,西は東堀川に至る,現在の中京区・下京区のほとんどの地域に及びました。21日に鎮火しましたが,800か町,2万7000世帯,そのほか土蔵や寺社などが罹災しました。 名の知られた寺院では,東本願寺・本能寺・六角堂が焼失しました。京都御所・二条城・西本願寺は,火がすぐ近くまできましたが焼失は免れました。その被害の範囲を描いたかわら版が多く残されています。 火災としては,天明8(1788)年の天明大火に次ぐ大火でしたが,どんどん焼けは幕末の動乱期に起きたため,市中は被害から容易に立ち直れませんでした。その5年後には東京遷都が行われ,なおいっそう京都の衰退に拍車がかかることになりました。 |
長州軍がここに主力を集中して激戦となったので,その戦いを蛤御門の変とも称するようになりました。今もその扉に当時の弾痕が残っています。江戸時代には現在よりも東にありました。 |
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![]() 毛利家の長州藩邸は,慶長以来幕末まで,この地にありました。蛤御門の変では,長州藩邸から出た火が町の大半を焼き尽くしました。 鳥羽伏見戦の後,その焼け跡は征東に赴く長州兵の調練場となりました。明治維新後は官有となり,京都府勧業場・画学校などを経て,明治21年木造洋式の常盤ホテル(ときわほてる)となりました。明治24(1891)年に来日したロシア皇太子ニコライもこのホテルに宿泊し,5月11日に大津で襲撃されました。いわゆる大津事件です。 明治28年に京都ホテルとなりました。現在は京都ホテルオークラ。 |
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![]() 天龍寺は,臨済宗天龍寺派の大本山で,足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため創建しました。京都五山の第一位に列せられましたが,たびたび焼失し,江戸時代に復興しましたが,蛤御門の変の兵火に罹災しました。 元治元(1864)年6月28日,長州軍は天龍寺を宿舎および本陣として利用しました。7月19日早朝,市中に向かって進軍し,蛤御門あたりで戦い敗れました。翌日,戦勝した薩摩軍が,長州残党狩りのため押し寄せ,寺に火をかけました。天龍寺塔頭の弘源寺には,この時に応戦した長州藩士の刀傷が残っています。 |
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![]() 元治元(1864)年7月20日,どんどん焼けの火が六角牢獄に迫りました。牢には志士33人が収容されていましたが,火災が迫り脱獄を恐れた幕府役人により,午後2時頃から夕暮にわたり,切支丹牢(きりしたんろう)東側で全員が斬首されました。 池田屋事件,生野(いくの)の変,大和蜂起,足利将軍木像さらし首事件などにかかわった志士で,平野国臣(ひらのくにおみ)・長尾郁三郎(ながおいくさぶろう)・古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)らが犠牲者となりました。 |
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![]() 六角牢獄で殺された者の氏名を刻んだ慰霊碑が竹林寺に建てられています。「元治甲子元年七月二十日六角獄舎殉難志士之墓」と刻まれています。 遺骸は処刑場であった西の仕置場(しおきば,中京区西ノ京円町附近)内に埋葬されたまま歳月を経ましたが,明治10(1877)年,化芥所(けがいしょ,ごみ処理と廃品回収の施設)となっていた敷地から発掘された多数の遺骨が,竹林寺に改葬されました。 |