天明の大火
都市史24

てんめいのたいか
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あらまし

 天明8(1788)年正月30日におきた,京都の歴史上最大の火災。

 鴨川の東,団栗辻子(どんぐりのづし)の民家から早朝に出火しました。団栗辻子はいまの団栗橋(四条大橋の南の橋)のかかっているあたりです。

 そのままだと被害は鴨川の東に限られたのですが,火は東からの強い風に吹かれ,鴨川を超えて西へひろがり,それからさらに北と南へも拡大し,2月2日朝にようやく鎮火しました。旧暦では30日または29日が月の最後の日ですから,正月30日,2月1日,2月2日と二昼夜燃えつづけたわけです。

被害は?

 鎮火するまで,北は鞍馬口通(くらまぐちどおり),南は七条通,東は鴨川の東,西は千本通(せんぼんどおり)までの範囲が焼けました。当時の京都の市街はほぼこの範囲でしたから,京都という大都会が焼け野原になってしまったのです。

 この火災で3万7000軒の家が焼け,6万5000世帯が住む所を失いました。御所や二条城,東西の本願寺も焼けてしまいました。

火災の影響

 まず,京都の経済が大きな痛手をこうむりました。これ以前から,京都の最先端技術が地方に伝えられ,その地で生産された品が全国に出まわり,京都の産業を圧迫していました。桐生(きりゅう,群馬県)の織物や銚子(ちょうし,千葉県)の醤油はその代表です

 天明の大火で京都の品物の生産が一時ストップし,右のような京都の苦境はさらに拡大しました。

 また,火災で家や家族を失った人たちの苦しみは長く続き,それと共にこの火事は「天明の大火」「申年(さるどし)の大火」とよばれ,長く記憶されることになったのです。

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永養寺(えいようじ) 下京区寺町通高辻上る

 浄土宗。この寺の鴨川をはさんだ向い側あたりの団栗辻子が火元。火は東からの強風にあおられて川を飛び越え永養寺に燃え移り,ここから西と北に燃え広がりました。

清浄華院(しょうじょうげいん) 上京区寺町広小路上る
 清浄華院境内。中央が供養塔。「横死焼亡百五十人之墓」と書きます。左端の角柱が石碑。

 大きな火事だったわりには,京都市内では天明の大火の史跡をあまりみかけません。

 数少ない史跡のうち,清浄華院(浄土宗)には犠牲者を供養する五輪塔があり,150人の死者の墓だと書いています。その横に供養のいわれを書いた石碑が建っています。

 清浄華院では火災のあと3月24日から7日間,施餓鬼供養が行われました。

円通寺(えんつうじ) 上京区東三本木通丸太町上る

 円通寺には,やはり犠牲者を供養する「為焼亡横死」(しょうぼうおうしのため)と刻まれた石碑が建てられています。

 天明大火の焼失範囲を示すかわら版。右が北を指し,赤く塗った部分が焼失した。で示したあたりが出火地点。

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