高瀬川
都市史22

たかせがわ
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どんな川?

 江戸時代後期の高瀬川。画面上端に鴨川からの取水口や一之舟入が見える。鴨川に架かる画面中央の橋が三条大橋。
 角倉了以(すみのくらりょうい,1554〜1614)とその子素庵(そあん,1571〜1632)の協力により,慶長19(1614)年に開かれた運河。高瀬川という名前は,輸送に高瀬舟とよばれる平底の舟が用いられたために付けられた名で,角倉川ともいわれています。

 角倉了以は,文禄元(1592)年豊臣秀吉の許可を受け,安南国(ベトナム)に貿易船を派遣するなど貿易商として活躍。また国内の河川開発に従事し,大堰川(おおいがわ)や富士川などの舟運を開いた人物です。

 江戸時代はじめの高瀬川は,二条大橋西畔から鴨川の水が引き入れられ,鴨川西岸を南流し,四条橋の下流で鴨川と合流,五条大橋の南で分岐し九条まで流れ,東九条で鴨川と交叉し伏見に至り,宇治川へ注ぐ,延長約10キロメートルの運河でした。17世紀末には鴨川と完全に分離されました。

 高瀬川は京都市中と伏見間の物資輸送に利用されました。それまでは,大坂方面からの物資は淀川を舟で運ばれ,鳥羽で陸あげされ,陸路を京都市中へ運ばれたのですが,高瀬川の完成により,市内中心部へ運ぶことが便利になったのです。

 現在の高瀬川は,昭和7(1932)年の改修工事により鴨川からの取り入れ口が暗渠(あんきょ)となっています。十条より南,竹田に至るまでの延長2.8キロメートルは,新高瀬川と称されており,旧時の流れと異なっています。

 二条大橋南西には,高瀬川最上流の物資積みおろし場である「一之舟入」(いちのふないり)があり,高瀬川の支配権と諸物資の輸送権を独占した角倉家はここに邸宅を構え,高瀬舟の運航を管理し,運送業者から手数料を徴収していました。

高瀬川は明治2(1869)年の京都府移管以降も物資運送に利用されましたが,鉄道の開通などによって次第にその機能を失い,大正9(1920)年に廃止されました。

 高瀬舟は基本的に物資を運搬しましたが,島流しの罪人や,稲荷の初午詣での人々も運びました。森鴎外(もりおうがい)の小説『高瀬舟』には,罪人を輸送する高瀬舟での会話が叙述されています。

高瀬川の実態
高瀬舟模型(京都市歴史資料館蔵)

 高瀬川で用いられた高瀬舟は平底の小型船で,舳先は水に乗りやすく,舟首に向かって舟底がそり上がっていました。舟の長さは平均13メートル,幅は2メートル。京都方面へ向う上り舟は,満載で15石(2.25トン)積,下り舟はその半分でした。宝永7(1710)年ころの,伏見から二条間に就航した舟は188艘ありました。

 伏見から京都に運搬された物資は,たきぎ・材木・炭・米酒・醤油・嗜好品・海産物などで,京都から伏見へは,たんす・長持・鉄工業製品などが輸送されました。高瀬川の開削によって大坂・伏見方面の物資が伏見(現南浜町)経由で京都へ送られるようになったことから,伏見や下鳥羽の陸運業者は仕事が激減する痛手を受けました。

 高瀬川の舟運によって川筋の舟入には問屋が多数置かれ,商品を扱う商人や職人が同業者町を形成し,材木町,樵木町(こりきちょう),石屋町,塩屋町など職種や商品を反映した町名がつきました。また現在の七条通北,河原町通西につくられた内浜(うちはま)という舟入は,高瀬舟発着の基地となりました。

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舟入(船入・ふないり)
一之舟入

 高瀬川の舟入は、物の積み下ろしと舟の方向転換の場所です。古地図類の示すところによれば高瀬川が開かれた当初は二条〜四条間に七か所作られましたが、十七世紀末には九か所に増え、十八世紀中ごろには七か所に減り明治に至りました。現在は一之舟入(中京区木屋町通二条下る西側。図はその周辺)だけが残っています。川の管理者である角倉氏はここに角倉屋敷をおき、高瀬舟の運航を監視しました。

 昭和九(一九三四)年、一之船入は史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定され、戦後も文化財保護法による史跡に指定され「史蹟一之船入」の石標が建っています。

 ほかに高瀬川沿いには、二之舟入、三之舟入、五之舟入、六之舟入、七之舟入、八之舟入、九之舟入にの各舟入跡にも石標が建てられています。二之舟入跡と三之舟入跡の石標は舟入が七か所だった時代の二番目と三番目の舟入の位置に建てられましたが、平成二十一年に九か所だった時代にもとづき五〜九の舟入跡に石標が建てられ、同時に二之舟入跡と三之舟入跡の石標は九か所の時期の二番目と三番目の位置に移されています。くわしい変遷は石田孝喜『高瀬川』(二〇〇五年思閣出版刊)に示されています。

 なお一之舟入以外の舟入を「〜之舟入」と助数詞を附けてよぶことは、江戸時代の古地図や地誌類には見られず、比較的新しい呼び名だと考えられます。

水の堰止(せきと)めの石 中京区木屋町通御池下る西側
水の堰止めの石

   御池通(おいけどおり)にかかる橋のやや下流,高瀬川を横切るように3個の四角柱が並んでいます。左右両岸の石には「コ」,中央の石にはH型の溝があります。一辺は約15センチメートルで,高瀬舟往来のため,木の板をはめ込んで水位を調節した堰止めの石です。高瀬舟は荷を満載すれば沈むため,堰で水位を上げることで舟底をこすらずに通り抜けることができました。

 高瀬川の水の堰止め石を示すものとして「水の堰止めの石」と記された石標が建てられています。

角倉邸跡(すみのくらていあと) 中京区木屋町通二条下る東側

 高瀬川の管理にあたっていた角倉邸は,このほか高瀬川沿いに邸宅を何軒かもっていましたが,一之舟入町の角倉邸が最も大きいものでした。

 明治以降,同敷地は民間に払い下げられ,同地には「角倉了以別邸跡」と記された石標が建てられています。

二尊院(にそんいん) 右京区嵯峨二尊院門前長神町

 天台宗。小倉山と号し,本尊は釈迦如来と阿弥陀如来の二尊。承和年中(834〜47),嵯峨天皇の勅により円仁が創建しました。その後荒廃し,九条家の協力を得て法然が中興,弟子湛空(たんくう)が継承しました。以後,天台・真言・律・浄土の四宗兼学寺院となりました。

 本堂背後の小倉山中腹には,角倉了以・素庵父子の墓があります。

高瀬舟模型 中京区寺町通御池上る(京都市役所内)

 市役所内には,伏見の船大工が造った高瀬舟の模型が置かれています。

瑞泉寺(ずいせんじ) 中京区木屋町通三条下る 

 浄土宗西山派。本尊阿弥陀如来。

 この地はもともと鴨川の河原で,文禄4(1595)年,豊臣秀次の妻子など三十余人が斬られた場所です。その遺骸は高野山で自害した秀次とあわせて河原に埋められ,塚を建てて秀次悪逆塚と呼びました。俗に畜生塚とも言われました。

 寺伝によれば,高瀬川ができる時に角倉了以が塚を修復し,寺を建て瑞泉寺と名付け供養したといいます。境内には秀次の墓といわれる石塔や妻子などの墓と伝える塔があります。

 現在の舟入跡石標位置図。たとえば「二」は「二之舟入跡」を示す。原図は国土地理院刊25000分1地形図画像(京都東北部)を使用。

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