どんな川?
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江戸時代後期の高瀬川。画面上端に鴨川からの取水口や一之舟入が見える。鴨川に架かる画面中央の橋が三条大橋。 |
角倉了以(すみのくらりょうい,1554〜1614)とその子素庵(そあん,1571〜1632)の協力により,慶長19(1614)年に開かれた運河。高瀬川という名前は,輸送に高瀬舟とよばれる平底の舟が用いられたために付けられた名で,角倉川ともいわれています。
角倉了以は,文禄元(1592)年豊臣秀吉の許可を受け,安南国(ベトナム)に貿易船を派遣するなど貿易商として活躍。また国内の河川開発に従事し,大堰川(おおいがわ)や富士川などの舟運を開いた人物です。
江戸時代はじめの高瀬川は,二条大橋西畔から鴨川の水が引き入れられ,鴨川西岸を南流し,四条橋の下流で鴨川と合流,五条大橋の南で分岐し九条まで流れ,東九条で鴨川と交叉し伏見に至り,宇治川へ注ぐ,延長約10キロメートルの運河でした。17世紀末には鴨川と完全に分離されました。
高瀬川は京都市中と伏見間の物資輸送に利用されました。それまでは,大坂方面からの物資は淀川を舟で運ばれ,鳥羽で陸あげされ,陸路を京都市中へ運ばれたのですが,高瀬川の完成により,市内中心部へ運ぶことが便利になったのです。
現在の高瀬川は,昭和7(1932)年の改修工事により鴨川からの取り入れ口が暗渠(あんきょ)となっています。十条より南,竹田に至るまでの延長2.8キロメートルは,新高瀬川と称されており,旧時の流れと異なっています。
二条大橋南西には,高瀬川最上流の物資積みおろし場である「一之舟入」(いちのふないり)があり,高瀬川の支配権と諸物資の輸送権を独占した角倉家はここに邸宅を構え,高瀬舟の運航を管理し,運送業者から手数料を徴収していました。
高瀬川は明治2(1869)年の京都府移管以降も物資運送に利用されましたが,鉄道の開通などによって次第にその機能を失い,大正9(1920)年に廃止されました。
高瀬舟は基本的に物資を運搬しましたが,島流しの罪人や,稲荷の初午詣での人々も運びました。森鴎外(もりおうがい)の小説『高瀬舟』には,罪人を輸送する高瀬舟での会話が叙述されています。
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