大仏殿とは?
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『都名所図会』に描かれた江戸時代の大仏殿。大仏の顔が見えている。手前には巨大な石塁があり,今でも京都国立博物館の西側で見ることができる。 |
天正14(1586)年,豊臣秀吉は奈良の大仏に匹敵する大仏を京都東山山麓に建立することを計画,高さ六丈三尺(約19メートル)の木製金漆塗坐像大仏を造営しました。
大仏が安置された大仏殿は二重瓦,高さ二十五間(約49メートル),桁行四十五間二尺七寸(約88メートル),梁行約二十七間六尺三寸(約54メートル)という壮大なもので,文禄4(1595)年頃に完成しました。
大仏殿は西向きに建てられ,境内は,現在の方広寺・豊国神社・京都国立博物館の3か所を含む広大なもので,各種の洛中洛外図屏風に描かれています。現存する石垣から南北約260メートル,東西210メートルの規模であったと推定されています。
慶長元(1596)年閏7月に起きた慶長大地震により開眼供養前の大仏と築地が倒壊しました。慶長2(1597)年,秀吉は信濃国善光寺(ぜんこうじ)の阿弥陀如来を安置しましたが,翌年8月秀吉の容態悪化によって善光寺へ阿弥陀如来を返還,同月18日秀吉が死去,秀吉の死は外部に伏されたまま,慶長3(1598)年8月22日大仏のない大仏殿で開眼供養が行われました。
その後,秀吉の遺志を継いだ秀頼(ひでより)が大仏の再建に着手しましたが,慶長7(1602)年鋳造中の大仏から出火炎上しました。慶長13(1608)年秀頼は再度大仏再建を企図し,慶長17(1612)年に完成。しかし,寛文2(1662)年の地震で再び小破し,寛文7(1667)年に造り直されました。
寛政10(1798)年7月1日夜,大仏殿に落雷し,本堂・楼門を焼失,木像の大仏も灰燼に帰しました。その火災は「京の大仏つぁんは,天火で焼けてな,三十三間堂が焼け残つた,アラ どんどんどん,コラ どんどんどん,うしろの正面どなた」とわらべ歌にうたわれました。
天保年間(1830〜44)尾張国の有志が半身の大仏像を造り,仮殿に安置しましたが,昭和48(1973)年3月28日深夜の出火により半身の大仏と大仏殿は焼失してしまいました。
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