大仏殿
都市史19

だいぶつでん
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大仏殿とは?

『都名所図会』に描かれた江戸時代の大仏殿。大仏の顔が見えている。手前には巨大な石塁があり,今でも京都国立博物館の西側で見ることができる。
 天正14(1586)年,豊臣秀吉は奈良の大仏に匹敵する大仏を京都東山山麓に建立することを計画,高さ六丈三尺(約19メートル)の木製金漆塗坐像大仏を造営しました。

 大仏が安置された大仏殿は二重瓦,高さ二十五間(約49メートル),桁行四十五間二尺七寸(約88メートル),梁行約二十七間六尺三寸(約54メートル)という壮大なもので,文禄4(1595)年頃に完成しました。

 大仏殿は西向きに建てられ,境内は,現在の方広寺・豊国神社・京都国立博物館の3か所を含む広大なもので,各種の洛中洛外図屏風に描かれています。現存する石垣から南北約260メートル,東西210メートルの規模であったと推定されています。

 慶長元(1596)年閏7月に起きた慶長大地震により開眼供養前の大仏と築地が倒壊しました。慶長2(1597)年,秀吉は信濃国善光寺(ぜんこうじ)の阿弥陀如来を安置しましたが,翌年8月秀吉の容態悪化によって善光寺へ阿弥陀如来を返還,同月18日秀吉が死去,秀吉の死は外部に伏されたまま,慶長3(1598)年8月22日大仏のない大仏殿で開眼供養が行われました。

 その後,秀吉の遺志を継いだ秀頼(ひでより)が大仏の再建に着手しましたが,慶長7(1602)年鋳造中の大仏から出火炎上しました。慶長13(1608)年秀頼は再度大仏再建を企図し,慶長17(1612)年に完成。しかし,寛文2(1662)年の地震で再び小破し,寛文7(1667)年に造り直されました。

 寛政10(1798)年7月1日夜,大仏殿に落雷し,本堂・楼門を焼失,木像の大仏も灰燼に帰しました。その火災は「京の大仏つぁんは,天火で焼けてな,三十三間堂が焼け残つた,アラ どんどんどん,コラ どんどんどん,うしろの正面どなた」とわらべ歌にうたわれました。

 天保年間(1830〜44)尾張国の有志が半身の大仏像を造り,仮殿に安置しましたが,昭和48(1973)年3月28日深夜の出火により半身の大仏と大仏殿は焼失してしまいました。

大仏殿と豊臣家
方広寺の鐘。白く塗られている部分の向って右が「国家安康」の文字。左は「君臣豊楽」。

 秀頼の大仏再建では大仏はほとんど完成しましたが,慶長19(1614)年,家康が突如開眼供養の延期を命じました。これが世にいう「鐘銘事件」(しょうめいじけん)の発端です。

鐘銘事件とは,豊臣秀頼が大仏再建の際に鋳造した釣鐘の銘のうち「国家安康」(こっかあんこう)の部分が,家康の胴を切るものだとして家康が難癖をつけ,これをきっかけに大坂の陣が開戦した事件です。豊臣秀頼は母淀殿(よどどの)とともに自刃し豊臣家は亡びました。豊臣家滅亡後も鐘は残され,方広寺に現存し,重要文化財に指定されています。

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方広寺(ほうこうじ) 東山区正面通大和大路東入

 天台宗。大仏殿を管理する寺として豊臣秀吉によって創建されました。

 現在は鐘楼と鐘銘事件の原因となった鐘(重要文化財)が残り,本堂には大仏眉間仏や10分の1に縮少した大仏(阿弥陀如来像)が安置されています。

豊国神(とよくにじんじゃ)社 東山区正面通本町

 豊臣秀吉を祀る。俗にホウコクさん。慶長3(1598)年,秀吉の遺体が東山の阿弥陀ヶ峰山頂に葬られ,翌年,社殿が山麓に創建されました。秀吉七回忌では盛大な臨時祭礼が行われ,その様子は「豊国臨時祭礼図屏風」に描かれています。

 豊臣家滅亡後,徳川幕府は社号を廃し,社殿は朽ちるに任され,その跡は太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれる広場になっています。

 明治13(1880)年に旧大仏殿境内に社地を移し,社殿が造営されました。唐門(国宝)は南禅寺金地院から移され,伏見城の遺構だと伝えます。

妙法院(みょうほういん) 東山区妙法院前側町

 天台宗。南叡山と号し,本尊は普賢菩薩。

 永暦元(1160)年後白河法皇の新熊野社(いまくまのしゃ)勧請にともない,延暦寺西塔本覚院の昌雲が法住寺御所(ほうじゅうじごしょ)内の蓮華王院(三十三間堂)鎮守新日吉社(いまひえしゃ)の検校となり,妙法院と号し里坊を開いたのに始まります。鎌倉時代初期に祇園社西に移り綾小路房と呼ばれ,高倉天皇皇子尊性法親王の入寺以来,梶井門跡(かじいもんぜき,三千院),青蓮院(しょうれんいん)門跡と並ぶ門跡寺院としての地位を得ました。

 天正14(1586)年ころ現在地に移り,豊臣家滅亡後,蓮華王院(れんげおういん,三十三間堂<さんじゅうさんげんどう>),新日吉社(いまひえしゃ),後白河法皇御影堂,大仏殿が妙法院の管理下に置かれました。

京都国立博物館(きょうとこくりつはくぶつかん) 東山区茶屋町

 明治30(1897)年,古社寺の文化財の破損や滅亡を防ぎ,保存・収集することを目的に帝国京都博物館として開館しました。明治33年に京都帝室博物館と改称。大正13(1924)年京都市に下賜され,恩賜京都博物館と称されましたが,昭和27(1952)年国に移管し京都国立博物館となりました。

 この地は明治3(1870)年明治政府によって公収され,恭明宮(きょうめいぐう)にあてられ,その跡地が博物館となりました。

恭明宮は,明治維新後の神仏分離によってそれまで御所黒戸に安置されていた仏像と歴代天皇の位牌を祀る場所として創設。東京遷都に際し天皇に随行しなかった宮中の女官のための居住施設を兼ねた建物でした。明治9(1876)年に廃止され,霊牌殿は泉涌寺(せんにゅうじ)に,仏像仏具は水薬師寺(みずやくしじ,下京区西七条石井町)に移され,残った建物は皇室ゆかりの寺院に移されました。

 現在,博物館西と南の一部に大仏殿敷地の石塁が残されており(国指定史跡),博物館構内北部の一部が大仏殿の場所に相当,平成9(1997)年の発掘調査では,大仏殿の遺構として石垣や柱穴列,南門と回廊の基礎跡,大仏瓦,石組溝,鋳造遺構,南面石垣などが見つかっています。

三十三間堂(さんじゅうさんげんどう) 東山区三十三間堂廻り町

 正しくは蓮華王院。本尊は千手観音。長寛2(1164)年,後白河天皇の勅願で創建。名称は堂の内陣柱間が三十三あることに由来します。三十三間堂は蓮華王院(れんげおういん)の本堂で,1001体の観音菩薩像が安置された国宝建築です。

 天正14(1586)年豊臣秀吉の大仏殿創建により方広寺の山内寺院(千手堂)となりました。秀吉没後,方広寺が妙法院の管理下に入ったことから,蓮華王院も妙法院に属し,現在に至っています。

 方広寺の土塀の一部が三十三間堂の築地塀(ついじべい)「太閤塀」(たいこうべい)として残っており,重要文化財です。

大仏殿跡緑地公園(だいぶつでんあとりょくちこうえん) 東山区茶屋町
大仏殿跡緑地公園

 この地は豊国神社の東隣にあたります。発掘調査によって大仏殿の基壇に相当していたことがわかり,大仏殿跡の台座などが見つかりました。

 大仏殿跡の遺構は地下に保存され,調査地点は緑地公園となっています。

耳塚(みみづか) 東山区大和大路通正面西入

 豊国神社の西に小高い墳丘が作られ,その頂に五輪塔が立っています。これが耳塚で,国指定史跡「方広寺石塁および石塔」に含まれ「石塔」のひとつです。もうひとつは豊国神社境内に立つ馬塚。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役)で,配下の武将が朝鮮軍民の鼻や耳を切取り,戦利品として日本に持ち帰りました。耳塚は慶長2(1597)年,これを埋めて供養した塚です。当初は鼻塚と呼んでいましたが,次第に耳塚の名で知られるようになりました。大仏殿や豊国神社や豊国廟とあわせて,東山における秀吉の遺跡のひとつです。

 大仏殿跡附近の現況。中心からやや左寄りに豊国神社があり,ここに大仏殿が立っていた。右端の山上には秀吉の墓である豊国廟が見える。
 *国土地理院発行数値地図25000(地図画像)を複製承認(平14総複第494号)に基づき転載。

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