洛中洛外図屏風
都市史17

らくちゅうらくがいずびょうぶ
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どんな屏風

 「洛中洛外図屏風」は,京都の市街と郊外を鳥瞰し、そこに有名寺社や名所と四季のうつろいを追い、上は内裏や公方の御殿から下は町屋や農家の住まいまで、そこに生きるひとびとの生活と風俗を描いた屏風絵です。

 多くは六つ折れ(六曲)の屏風二つがセットになっています。これを一双(いっそう)とよびます。一双の屏風の片方を一隻(いっせき)といいます。このような洛中洛外図屏風の数は、わかっているものだけで百点近くになります。

 描かれた年代は、初期のもので室町後期の応仁・文明の乱後の復興期(16世紀前半)を描くものです。その乱で京都の町は壊滅状態となりました。その後の復興の中で、上京(かみぎょう)と下京(しもぎょう)の市街地がそれぞれ分かれたような状態になっていきました。その二つの市街地は、南北に通ずる中央の道路一つだけでつながっていたとされ、その道路が室町通(むろまちどおり)だと考えられています。歴博甲本・上杉本などの初期洛中洛外図屏風の構成は、一隻は上京を、もう一隻は下京を中心に描いています。

 初期洛中洛外図屏風に変容をもたらしたのは、豊臣秀吉による聚楽第(じゅらくだい)の建設でした。そして、上京と下京の二つの市街地から、両者が合体し町並が続く大都市へと変貌していきました。

 都市の景観が変わったことにともない、江戸時代初期の洛中洛外図屏風では、豊臣家を象徴する方広寺(ほうこうじ)大仏殿と、江戸幕府の京都での象徴二条城を対峙させて描くスタイルができました。

 それ以後は西山を背景とする二条城を一隻の中心に据え、東山を背景とする他隻では祇園会(ぎおんえ,祇園祭)の山鉾を中心とする構図が基本型となります。江戸時代はじめには、後水尾天皇の二条城行幸や東福門院(とうふくもんいん)入内などが描かれました。

 18世紀以降の屏風の景観はまったくといっていいほど変化がなく、寛永3(1626)年に挙行された後水尾天皇の二条城行幸の有様を幕末に至るまでずっと描き続けました。 洛中洛外図屏風の画面は、かならずしも歴史のある瞬間を示したものではありません。たとえば制作時点で、ある寺院が焼失して存在しなくても、京都のイメージとして必要であれば描き込んだ場合もあるからです。つまり、景観年代と制作年代が同じとは限らないということです。

歴博甲本「洛中洛外図屏風」

 現存する洛中洛外図屏風の最古のもので、国立歴史民俗博物館所蔵。歴博甲本といわれ、三条公爵家に伝来し、それから町田家に移ったので町田家本とも呼ばれます。重要文化財。

 一隻の前景に一条通から御霊前通(ごりょうまえどおり)までの上京を描き、その背後に松尾社から上賀茂社にいたる洛外の風景を配します。もう一隻は前景に一条通から五条通までの洛中下京の町並、背景に叡山横川(えいざんよかわ)から東福寺までの東山洛外を描いています。

 地理的な整合性が高く、四季が色濃く現れているのが特徴で、大永5(1525)年から天文5(1536)年ごろの天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)による被災以前の景観を現すものです。狩野元信(かのうもとのぶ)周辺の画家の作ではないかと考えられています。1359人が描かれているといいます。

上杉本「洛中洛外図屏風」
上杉本に見る庶民のくらし(京都アスニーの陶版から)。

 上杉本は、天正2(1574)年織田信長が狩野永徳(かのうえいとく)に描かせて上杉謙信に贈ったという伝承をもつものです。現在は米沢市(上杉博物館)蔵で国宝に指定されています。制作年代については諸説あり一定しませんが、景観年代は、天文年間(1532〜54)後半と考えられているようです。

 一隻は鴨川と東山方面を西側から俯瞰し、御所を左端に描き、東山の名所と祇園会の山鉾が主題になっています。一隻は北山・西山方面を東側から眺望したもので、花の御所・相国寺・公武の屋敷、嵯峨野・高尾・栂尾(とがのお)・北山・鞍馬などが配されています。

 2485人の様々な身分や職種の人物を描き込み、街路名や方位など237件の文字注記があり、描かれた風俗と情報量は他の洛中洛外図屏風を圧倒しています。

歴博乙本「洛中洛外図屏風」

 国立歴史民俗博物館蔵。近年発見されました。その景観は「上杉本」に近い天文年間と考えられていますが、上杉本より景観年代が古いとの説もあります。もとは、高橋家に所蔵されていたため高橋本ともいわれています。重要文化財。狩野永徳の父の松栄筆という説があります。描写人数1618名。

舟木本「洛中洛外図屏風」

 近江長浜の舟木(ふなき)家が彦根で求め所蔵していたもので、現在は東京国立博物館蔵、重要文化財。

舟木本は洛中洛外図としては変型の作品で、左右隻が連続する構図をとっています。元和元年(1615)の大坂夏の陣直前の景観らしく、左隻の徳川家の二条城と、右隻の豊臣家ゆかりの方広寺や豊国廟(ほうこくびょう)を左右に対峙させて描かれています。描写人数2728名。

その他主な「洛中洛外図屏風」

 東京国立博物館蔵模本(東博模本)は模本ですが、原本は狩野永徳筆といわれ、歴博甲本に次いで古い天文8(1539)年以降の景観を示すものとみられます。

 妙法寺本は、かつて佐渡両津の回船問屋本間家が京都で入手した屏風。寛保3(1743)年檀那寺の妙法寺に寄進されました。画中の両替屋の大福帳に「元和7(1621)年」という記載があり、その年が制作年の上限となっています。

 高津本(こうづぼん)は高津古文化会館(上京区今出川天神筋下る)蔵。三条通を境に上京下京を両隻に描くという南北の構図が珍しい屏風。慶長最末期から元和初年頃(1600〜20)の制作と考えられています。

 池田本は林原美術館蔵。岡山藩池田家に伝来したものです。元和年間(1615〜23)初頭の景観で、描写人数は3000人を超えます。重要文化財。

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京都で洛中洛外図屏風(複製)が見られるところ
(1)の上杉本陶版。
(4)の高津本陶版。

 洛中洛外図屏風をパネルや陶版にして展示しています。
 (1)(2)は上杉本、(3)は歴博甲本、(4)は高津本。


(1)京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)
  中京区丸太町七本松西入

(2)京の道資料館 下京区西洞院塩小路下る

(3)京都府京都文化博物館 中京区三条通高倉

(4)阪急烏丸駅大丸連絡地下道


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