どんな屏風
「洛中洛外図屏風」は,京都の市街と郊外を鳥瞰し、そこに有名寺社や名所と四季のうつろいを追い、上は内裏や公方の御殿から下は町屋や農家の住まいまで、そこに生きるひとびとの生活と風俗を描いた屏風絵です。
多くは六つ折れ(六曲)の屏風二つがセットになっています。これを一双(いっそう)とよびます。一双の屏風の片方を一隻(いっせき)といいます。このような洛中洛外図屏風の数は、わかっているものだけで百点近くになります。
描かれた年代は、初期のもので室町後期の応仁・文明の乱後の復興期(16世紀前半)を描くものです。その乱で京都の町は壊滅状態となりました。その後の復興の中で、上京(かみぎょう)と下京(しもぎょう)の市街地がそれぞれ分かれたような状態になっていきました。その二つの市街地は、南北に通ずる中央の道路一つだけでつながっていたとされ、その道路が室町通(むろまちどおり)だと考えられています。歴博甲本・上杉本などの初期洛中洛外図屏風の構成は、一隻は上京を、もう一隻は下京を中心に描いています。
初期洛中洛外図屏風に変容をもたらしたのは、豊臣秀吉による聚楽第(じゅらくだい)の建設でした。そして、上京と下京の二つの市街地から、両者が合体し町並が続く大都市へと変貌していきました。
都市の景観が変わったことにともない、江戸時代初期の洛中洛外図屏風では、豊臣家を象徴する方広寺(ほうこうじ)大仏殿と、江戸幕府の京都での象徴二条城を対峙させて描くスタイルができました。
それ以後は西山を背景とする二条城を一隻の中心に据え、東山を背景とする他隻では祇園会(ぎおんえ,祇園祭)の山鉾を中心とする構図が基本型となります。江戸時代はじめには、後水尾天皇の二条城行幸や東福門院(とうふくもんいん)入内などが描かれました。
18世紀以降の屏風の景観はまったくといっていいほど変化がなく、寛永3(1626)年に挙行された後水尾天皇の二条城行幸の有様を幕末に至るまでずっと描き続けました。 洛中洛外図屏風の画面は、かならずしも歴史のある瞬間を示したものではありません。たとえば制作時点で、ある寺院が焼失して存在しなくても、京都のイメージとして必要であれば描き込んだ場合もあるからです。つまり、景観年代と制作年代が同じとは限らないということです。
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