町組の発生と運営
|
16世紀後半の町組の状況。応仁・文明の乱後の京都は,上京と下京の二つの市街地に分かれていた。それぞれの市街地が拡大し,安土桃山時代には一つの都市になっていた。なお,上図の「二条城」や道路は現況を示している。 |
|
|
上京の町組「川ヨリ西組」と,伊佐町,西船橋町,北猪熊町,北船橋町などの町前が見える「上下京御膳方御月賄米寄帳」(立入家文書)。元亀3年(1572)。 |
|
室町期に京都の町衆たちの自治・自衛のエネルギーが法華一揆を起こし,天文法華の乱(てんぶんほっけのらん,1536年)で頂点に達しました。その教訓として,自衛や自治に対する関心が飛躍的に高まり,町衆の住む町々の団結やその組織化をさらに推進させました。町組はそのような気運の中で結成されました。
町組が初めて史料にあらわれたのは,天文法華の乱で町々が焼き尽くされた翌年の天文6(1537)年正月のことです。この時,下京の各町組から1名づつ選ばれた代表者5人が,室町御所の将軍義晴のもとに銭二貫百文を持って年賀に出向きました。この時,下京の中組(なかぐみ)・西組(にしぐみ)・巽組(たつみぐみ)・艮組(うしとらぐみ)・七町半組(しちちょうはんぐみ)の5つの町組の代表者が,かつて法華一揆の結集地であった六角堂(ろっかくどう)に集まり,費用の割り当てを協議しました。
天文法華の乱で下京一円が惨禍をこうむった直後にもかかわらず,このように町組が機能を十分に発揮していることからも,町組の実際の結成はこの時期よりもかなりさかのぼるものと思われます。
上京の町組の初見は下京よりやや遅れ,天文18(1549)年の書状にみえる立売組(たちうりぐみ)で,続いて一条組(いちじょうぐみ)・中筋組(なかすじぐみ)・小川組(おがわぐみ)・川より西組(かわよりにしぐみ)が文献に見え,上京にも5つの町組があったことがわかります。しかし,これらの上京・下京の町組を構成した個々の町名が明らかになるのは,永禄11(1568)年の織田信長入京後のことです。
各町組には,町年寄という町組を代表する役職があり,「月行事」(つきぎょうじ)とも称されました。月行事は,1か月交代で,触の伝達,諸経費の徴収などにあたりました。
各町とその連合体である町組の自治運営組織が整備されていくと,町組の連合による上京・下京という,より広範囲の地域結合が生じました。そのころ幕府や武将から洛中への布告や通達は「上京中」とか「下京中」という宛名で出されています。
町組の運営は,10名の総代が担当しました。総代には富裕な経済力をもつ酒屋・土倉(どそう)などの有力町衆が就任しました。
|