「題目の巷」 法華宗と京都
鎌倉時代末,永仁2(1294)年に上洛した日像(にちぞう)によって,はじめて京都に法華宗(ほっけしゅう,日蓮宗)がもたらされました。
以後,法華宗は日像派をはじめ多くの流派を形成し,応仁・文明の乱(1467〜77)前後には,洛中に本山だけで21か寺を数えるまでに拡大し,京都は「題目の巷」と称されました。題目とは「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)の七文字のことです。
帰依者の中には公家・武家もいましたが,中心は町衆で,特に土倉(どそう)や酒屋などが信者の中核となりました。
室町後期頃,法華宗は,信者以外からは施しを受けず,また施しを与えないという不受不施(ふじゅふせ)の法理に従い,戦闘的な立場をとるようになりました。そのため,特に山門(さんもん,比叡山延暦寺)からたびたび攻撃を受け,進んで武装するようになりました。
法華宗の武装は,町の自治と自衛のために団結する町衆や,松ヶ崎(まつがさき)など近郊の法華信者の農民と結びつき,門徒集団として武器を携え身命を賭して戦う「法華一揆」(ほっけいっき)へと発展していきました。武装した門徒は,旗指物をかかげ,題目を唱えながら京内を巡回する「打ちまわり」を行いました。
応仁・文明の乱後,洛中に乱入する土一揆や諸大名間の戦闘に対して,町衆は武力をたくわえ町を防衛しました。法華一揆は,時には武家の軍勢とともに参戦し,一方で,年貢の減免要求を掲げて抵抗を示しました。
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