どんな乱?
応仁元(1467)年から文明9(1477)年までの11年間,管領細川勝元(ほそかわかつもと)の東軍と山名宗全(やまなそうぜん,持豊<もちとよ>)の西軍が戦った内乱。京都が主戦場となりました。始まった年号だけをとり応仁の乱ともいいます。
嘉吉元(1441)年,赤松満祐(あかまつみつすけ)による六代将軍足利義教(あしかがよしのり)の殺害(嘉吉の乱)を境に幕府体制が揺らぎはじめ,七代将軍義勝の病死後,八代将軍に就任した足利義政(あしかがよしまさ)は,幕府と将軍権力の強化をねらいますが,側近は言うことを聞かず,政治は混乱し社会不安が増大しました。
義政には男子がいなかったので,寛正5(1464)年,弟の義視(よしみ)を家督相続者として迎え,前管領細川勝元を補佐につけました。その際,もし義政に男子が産まれても僧侶とすることを約束しました。
ところが,翌年11月,義政の夫人日野富子(ひのとみこ)が義尚(よしひさ,後に九代将軍)を出産し,将軍家世嗣の例に従い伊勢貞親(いせさだちか)の屋敷で養育されたことから,細川勝元は日野一族や義尚の補佐役山名宗全らと対立しました。特に,細川勝元と山名宗全の対立は,足利将軍家をはじめ管領畠山(はたけやま)・斯波(しば)両家の家督争いや,守護や在地武士の利害関係と結びつき,いっそう深まりました。
文正2(1467)年正月17日の夜,山名宗全の進言により将軍義政に出仕を禁じられた畠山政長(はたけやままさなが)は,自邸に火を放ち,上御霊林(かみごりょうばやし,現上京区上御霊神社附近)に陣を張りました。これが,応仁・文明の乱の発端です。
洛中での大規模な戦闘は,応仁元(1467)年9月から10月に行われた南禅寺(なんぜんじ)附近,東岩倉山や相国寺,船岡山(ふなおかやま)などの合戦です。その後,一乗寺(いちじょうじ)・山科(やましな)・醍醐(だいご)・木幡(こはた)・嵯峨(さが)・伏見稲荷(ふしみいなり)・西岡(にしのおか)・鳥羽(とば)・下桂(しもかつら)など洛外での戦闘が増加,洛中では足軽による食糧運搬路の切断や放火などのゲリラ活動が繰り返されました。
文明元(1469)年,戦局が地方に広がり,両軍とも大軍を率いて京都に押し寄せましたが,合戦は膠着状態のまま文明5(1473)年,山名宗全と細川勝元が相次いで死亡しました。その後も戦闘が続けられましたが,文明9(1477)年,畠山義就(はたけやまよしなり)が河内に兵を引き,大内政弘(おおうちまさひろ)も本拠地周防に帰り,他の大名も領国に引き揚げたため,乱が終結しました。
内乱後,室町幕府は全国的な影響力を失い,全国各地で戦闘が繰り広げられる戦国時代を迎えました。
|