応仁・文明の乱
都市史14

おうにん・ぶんめいのらん
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どんな乱?

 応仁元(1467)年から文明9(1477)年までの11年間,管領細川勝元(ほそかわかつもと)の東軍と山名宗全(やまなそうぜん,持豊<もちとよ>)の西軍が戦った内乱。京都が主戦場となりました。始まった年号だけをとり応仁の乱ともいいます。

 嘉吉元(1441)年,赤松満祐(あかまつみつすけ)による六代将軍足利義教(あしかがよしのり)の殺害(嘉吉の乱)を境に幕府体制が揺らぎはじめ,七代将軍義勝の病死後,八代将軍に就任した足利義政(あしかがよしまさ)は,幕府と将軍権力の強化をねらいますが,側近は言うことを聞かず,政治は混乱し社会不安が増大しました。

 義政には男子がいなかったので,寛正5(1464)年,弟の義視(よしみ)を家督相続者として迎え,前管領細川勝元を補佐につけました。その際,もし義政に男子が産まれても僧侶とすることを約束しました。

 ところが,翌年11月,義政の夫人日野富子(ひのとみこ)が義尚(よしひさ,後に九代将軍)を出産し,将軍家世嗣の例に従い伊勢貞親(いせさだちか)の屋敷で養育されたことから,細川勝元は日野一族や義尚の補佐役山名宗全らと対立しました。特に,細川勝元と山名宗全の対立は,足利将軍家をはじめ管領畠山(はたけやま)・斯波(しば)両家の家督争いや,守護や在地武士の利害関係と結びつき,いっそう深まりました。

 文正2(1467)年正月17日の夜,山名宗全の進言により将軍義政に出仕を禁じられた畠山政長(はたけやままさなが)は,自邸に火を放ち,上御霊林(かみごりょうばやし,現上京区上御霊神社附近)に陣を張りました。これが,応仁・文明の乱の発端です。

 洛中での大規模な戦闘は,応仁元(1467)年9月から10月に行われた南禅寺(なんぜんじ)附近,東岩倉山や相国寺,船岡山(ふなおかやま)などの合戦です。その後,一乗寺(いちじょうじ)・山科(やましな)・醍醐(だいご)・木幡(こはた)・嵯峨(さが)・伏見稲荷(ふしみいなり)・西岡(にしのおか)・鳥羽(とば)・下桂(しもかつら)など洛外での戦闘が増加,洛中では足軽による食糧運搬路の切断や放火などのゲリラ活動が繰り返されました。

 文明元(1469)年,戦局が地方に広がり,両軍とも大軍を率いて京都に押し寄せましたが,合戦は膠着状態のまま文明5(1473)年,山名宗全と細川勝元が相次いで死亡しました。その後も戦闘が続けられましたが,文明9(1477)年,畠山義就(はたけやまよしなり)が河内に兵を引き,大内政弘(おおうちまさひろ)も本拠地周防に帰り,他の大名も領国に引き揚げたため,乱が終結しました。

 内乱後,室町幕府は全国的な影響力を失い,全国各地で戦闘が繰り広げられる戦国時代を迎えました。

戦乱下の日常生活

 圧倒的な軍事力を誇った西軍に対し,東軍は,室町御所(花の御所)を中心に「御構」(おんかまえ)という防御陣地を築きました。土塁と堀で囲まれた御構の範囲は,南は一条,北は現在の寺之内通(てらのうちどおり),西は小川,東は烏丸の各道路で区画された広い範囲に及び,天皇や上皇をはじめ多くの公家,武家,裕福な町人が避難し,仮の住まいとしました。

 御構の外は,西軍がほとんど制圧し,下京との連絡も完全に遮断され,東軍の味方だった比叡山延暦寺のある北からの通路が唯一外部と連絡できるルートとなりました。

 せまい御構の中の生活環境は劣悪で,しばしば疫病や火災が発生し,人々を苦しめました。文明3(1471)年「赤疹」が大流行した御構の中では,疫病の退散を祈願するために歌や踊りが催されたり,疫病の原因である怨霊(おんりょう)を鎮める盛大な御霊会(ごりょうえ)が開かれ,多くの見物人でにぎわいました。

 現在,乱に備えて構築された堀や土塁の跡が,相国寺境内・烏丸一条などで見つかっています。特に,烏丸一条は御構の跡と考えられています。

 四角で囲んだ範囲が東軍「御構」のおよその位置。画面左上にで示したのが西軍の本拠であった山名宗全邸宅跡(石標の位置)。
 *国土地理院発行数値地図25000(地図画像)を複製承認(平14総複第494号)に基づき転載。
戦いの傷跡

 応仁・文明の乱によって,寺社や公家の邸宅はもちろん,上京の町の大半が焼失しました。『応仁記』に「汝やしる都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)あがるをみても落るなみだは」や「花洛は真に名に負ふ平安城なりしに,量(はか)らざりき応仁の兵乱に依て,今赤土と成りにけり」と乱後の町の荒廃ぶりを記しています。

 京都近郊の寺社も深刻な被害を受けましたが,洛中における戦闘の中心は上京であり,まず火が放たれたのは,公家や武家屋敷でした。乱勃発直後の町の様子は「二条より上,北山東西ことごとく焼野の原と成て,すこぶる残る所は将軍の御所計也(ごしょばかりなり)」(『応仁略記』)と記され,花の御所や内裏,仙洞御所は焼けず,戦乱中の生活基盤を支える商工業者の居住地区であった下京には,ほとんど火が放たれませんでした。

 乱後の京都の景観は,上京に室町御所を中心とした東軍の「御構」,その西側対面に西軍の構,そして,一条通の空堀を隔てて,その南に下京の町が存続していました。この混乱の中で京の人々は,町の防衛を学び,自治組織の素地を作り上げていきました。

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上御霊神社 上京区上御霊竪町

上御霊神社
「応仁の乱勃発地」の石標
 正しくは御霊神社。早良親王(さわらしんのう)らの怨霊の祟りを鎮めるため創祀され,祭神は,早良親王・井上内親王・他戸親王・藤原吉子・橘逸勢(たちばなのはやなり)・文屋宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)・吉備真備・火雷神。

 かつて御霊林が広がり,応仁元(1467)年正月17日の夜半,ここに布陣した東軍畠山政長と西軍畠山義就が交戦し,応仁・文明の乱がはじまりました。神社の前には「応仁の乱勃発地」の石標があります。

相国寺(しょうこくじ) 上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町

 臨済宗相国寺派大本山。正しくは,万年山相国承天禅寺。本尊は釈迦如来。永徳2(1382)年,足利義満が後小松天皇の勅許を得て,夢窓疎石(むそうそせき)を開山に創建しました。

 応仁元(1467)年10月,西軍の山名宗全が室町御所附近の相国寺奪回をもくろみ,畠山・大内・土岐・六角・一色などの兵を挙げ東軍の相国寺を攻め,数時間に及ぶ激戦がありました。

舟岡山(ふなおかやま,船岡山) 北区紫野北舟岡町ほか

 標高112メートル。平安京の東西中心線の延長にあり,平安京の北方を守護する四神のひとつ玄武(げんぶ)になぞらえられました。

 乱では,西軍の軍事拠点のひとつとなり,応仁2(1468)年9月初旬,東軍の細川勝元が,西軍の留守をねらって船岡山城を攻略しましたが,船岡山城は,両軍の本拠地から離れている上に,簡素な造りであったため,陣地として活用されませんでした。

 船岡山公園には,「応仁永正戦跡舟岡山」の石標があります。なお,この山は歴史的に「舟岡」「船岡」の二つの表記がなされます。

法輪寺(ほうりんじ) 西京区嵐山虚空蔵山町

 真言宗。和銅6(713)年,元明天皇の勅願によって行基が開いたと伝えられています。記憶を増す功徳のある虚空蔵菩薩が本尊であることから,智恵を授かる信仰があり,毎年3月13日から2か月間,13歳になった子女が参詣する十三詣り(じゅうさんまいり)は特に賑わいます。

 応仁2(1468)年9月,丹波から上洛する細川方の軍勢を西軍が阻止したため,これを援助するため細川被官の野田泰忠が法輪寺橋詰に出撃しました。

 乱で焼失した後,後陽成天皇(ごようぜいてんのう)が復興し,智福山の号を賜りました。

芝薬師堂(しばやくしどう,大興寺) 左京区浄土寺真如町

  臨済宗東福寺派大興寺の別称。本尊薬師如来。建久7(1196)年,後鳥羽天皇が上立売堀川西(現上京区芝薬師町)に創建。

 文明元(1469)年3月,東軍細川方の安富又次郎と京都郊外西岡(にしのおか)の侍が芝薬師堂を攻め,山名宗全の陣所近くまで攻め込みました。

 乱で焼失した後,潭月寂澄が中興し,天台から臨済に改宗し,元禄5(1692)年に現在地に移りました。

山名宗全(やまなそうぜん)旧跡 上京区堀川通上立売下る
山名宗全旧跡

 応仁・文明の乱中,山名宗全の邸宅がこの地にあったことから,後に「山名町」(やまなちょう)と名付けられました。町内には,山名宗全の旧邸宅を示す「山名宗全旧蹟」の碑があり,町内で祀られています。

西陣(にしじん)の碑 上京区今出川通大宮東入 京都市考古資料館前
西陣の碑

 山名方の陣地は西陣(西側の陣地)とよばれていました。この名はのちに西陣織で知られた地名となりました。京都市考古資料館は,大正4(1915)年に建てられた西陣織物館を整備して開館しましたが,考古資料館前に立つこの碑は,西陣の由緒と織物業の沿革を記しています。昭和3(1928)年建立。

大報恩寺(だいほうおんじ,千本釈迦堂<せんぼんしゃかどう>) 上京区五辻通六軒町西入

 承久3(1221)年求法上人義空が小堂を建て,仏像を安置したのに始まり,安貞元(1227)年本堂が建立されました。嘉禎元(1235)年倶舎・天台・真言三宗弘通の道場となり,広大な伽藍を誇りました。

 応仁・文明の乱によって堂塔は焼失しましたが,本堂のみが奇跡的に残りました。京都市街地に残存する最古の仏堂で国宝に指定されています。


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