上京と下京
都市史13

かみぎょうとしもぎょう
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左京・右京から上京・下京へ

 京都には現在の行政区とは別に,上(かみ)・下(しも)という二つの地域的概念がありました。これは,平安京以来の都市構造の変化によって次第につくられたものです。

平安京は朱雀大路を中心に左京(さきょう,東京)と右京(うきょう,西京)の町が左右対称に作られました。しかし土地が湿って住居に不適当だった右京は早く衰退し,人家が左京に集中しました。そのうえ左京の市街地が南と北に分かれるように延びはじめ,その結果,北の方が上(かみ),南の方が下(しも)というように,左京の町を二分する地理概念が生まれました。

 平安末期には新たに上辺(かみのわたり)と下辺(しものわたり)(『今昔物語集』)という言葉が生まれ,鎌倉時代の建治元(1275)年ころには「上下町中」の語が文献に見え始めました。南北朝時代には上京や下京という語も次第に使われ,15世紀初頭には上辺と上京,下辺と下京が併用されるようになりました。

 天文年間(1532〜54)には,上京や下京に町の自衛や自治を目的に町々が団結し,町組ができたことが確認できます。

中世以降の上京と下京

 永禄11(1568)年織田信長は足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて入京しました。そのころの上京の景観は「上の都は,日本全国の都にして,甚(はなは)だ富みたる人居住し,日本に於いて用ひらるゝ絹物及び緞子(どんす)は悉(ことごと)く此処(このところ)にて製造し,又重立(おもだ)ちたる人々の夫人にして最も高貴なる者住みしが…」「上の都は下の都より大なること二倍なる」(『耶蘇会士日本通信』)というように,御所があり富裕の者が集まる上京に対し,下京は商業街区であり民衆の町でした。

 江戸時代には,二条通を境に京都の町は上京と下京に別れていました。明治時代になり,上京と下京を基礎として行政区の上京区・下京区が生まれ,のち市制施行により京都市上京区と下京区になりました。

 昭和4(1929)年,上京区・下京区のうち,丸太町以南四条通以北に中京区が新設されました。

 江戸時代後期の古地図に見る上京と下京。中央部に引いた横線(本シートで追加)が二条通で,この通りを境に上京と下京に分かれていた。二条通は二条城の大手筋で,この通りの東端が高瀬川の起点である。

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