花の御所
都市史12

はなのごしょ
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花の御所とは?

 室町幕府第三代将軍足利義満(あしかがよしみつ)は,永和4(1378)年,北小路(きたこうじ,現今出川通)室町に新しい邸宅を完成させました。それは室町殿(むろまちどの)または室町第(むろまちてい)と呼ばれ,室町幕府の名の由来となりました。ついで康暦元(1379)年,その北の花亭と呼ばれた邸宅に移りました。鴨川の水を引き,花がたくさん植えられた庭園の美しさから両邸宅を合わせて「花の御所」と呼ばれました。「御所」というのは天皇・皇族や将軍など,身分の高い人の住居を指すことばです。

 花の御所の範囲は,南は北小路(きたこうじ),北は毘沙門堂大路(びしゃもんどうおおじ,現上立売通),東は烏丸小路(からすまこうじ,現烏丸通),西は室町小路(むろまちこうじ,現室町通)の東西一町・南北二町と考えられています。現在の今出川町(いまでがわちょう)・築山南半町(つきやまみなみはんちょう)・築山北半町・岡松町・御所八幡町(ごしょはちまんちょう)・裏築地町(うらつきじちょう)・上立売東町(かみだちうりひがしちょう)にあたります。

 この地にはもともと崇光上皇(すこうじょうこう)の御所がありましたが,永和3(1377)年に焼失し,その跡地には菊亭(きくてい)家の邸(今出川殿)が建てられました。それも焼失した後に花の御所が建設されたので,それらの遺構をいかしたものと推測されています。

 花の御所ができるまで,室町幕府は三条坊門万里小路(さんじょうぼうもんまでのこうじ,現中京区柳馬場通<やなぎのばんばどおり>御池<おいけ>あたり)にあり,三条御所とよばれていました。ところが,内裏のすぐ北に幕府が移って,この地が政治の中心となりました。

 花の御所の造営により,上京(かみぎょう)は公家ばかりでなく武家の町ともなり,周囲には門跡寺院や武家の菩提寺などが建てられ,商工業者の町となった下京(しもぎょう)とは対照的な為政者の住まいする地となりました。

花の御所の変遷
花の御所(京都アスニー蔵洛中洛外図上杉本陶版より)

 足利義満の時代は,室町幕府の最盛期で,隠居して北山第(きたやまてい,現鹿苑寺<ろくおんじ>)に住してからもその権威は絶大なものでした。創建から約25年たった応永13(1406)年,幕府は山城国中に上納金を課して室町第の修理費用にしました。これも存命だった義満の権威により可能だったのです。

 さらに永享元(1429)年,六代将軍足利義教(あしかがよしのり)が,花の御所御会所と御会所泉殿を増築し,青蓮院(しょうれんいん,現東山区)の石を花の御所に運ばせました。永享9(1437)年には後花園天皇が行幸しました。その行幸記から花の御所に四足門・中門・寝殿・台盤所・御湯殿・常御所・夜御殿などがあったことがわかります。四足門は室町通に面していました。

 宝徳元(1449)年足利義政(あしかがよしまさ)が八代将軍となり,会所が落成し,長禄3(1459)年2月上棟。同年11月室町新邸に移っています。文明6(1474)年義政は,これを九代将軍足利義尚(あしかがよしひさ)に譲って,今出川の小川御所に移りました。

 応仁・文明の乱(1467〜77)が起こり,応仁元(1467)年,西軍が室町第を攻撃しました。文明8(1476)年には近くの土倉(どそう)・酒屋が放火されて室町第も全焼しました。この時には近接する禁裏や公家・武家・門跡寺院の多くも罹災しました。 

 のち再建のため文明11(1479)年には,管領(かんれい)を惣奉行として諸国に上納金を課して造営費を捻出し,寝殿を造りました。しかし,翌年にまた類焼し,文明13年に周囲に築地を建造するまでに至りましたが,どの程度に再興したかは不明です。

 長享2(1488)年には,花の御所の焼け跡が夜盗の集会する所となり,庶民の住居にするかどうか問題となったといいます。数年後には庶民の家もこの附近に立ち並ぶようになったようです。

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花の御所(室町殿)跡 上京区室町通今出川あたり
室町通今出川角「足利将軍室町第址」石標

 花の御所跡地は,上立売通(かみだちうりどおり)・今出川通(いまでがわどおり)・烏丸通(からすまどおり)・室町通(むろまちどおり)に囲まれた一帯で,御所八幡町(ごしょはちまんちょう)や岡松町(おかまつちょう)という町名のあたりがその地と考えられます。御所八幡町は,鎮守神の八幡宮があったことに因み,岡松町は,御所内の岡松殿に因んで名付けられたものです。室町通今出川東北角に「足利将軍室町第址」の石標が建てられています。

 平成14(2002)年,同志社大学の大学会館敷地内(上京区上立売通烏丸角)から16世紀前半の室町殿とみられる遺構が発掘されました。

大聖寺(だいしょうじ) 上京区烏丸今出川上る御所八幡町

 大聖寺は,御寺御所(みてらごしょ)とも呼ばれる臨済宗相国寺派門跡尼院で,この辺りが花の御所跡といわれ,境内には「花乃御所」という石標が建てられています。

 光厳天皇妃(大納言日野資名<ひのすけな>の娘宣子,義満の正室日野業子は姪にあたる)が,出家して大聖院(だいしょういん)無相定円尼(むそうていえんに)となり,義満が室町邸内の岡松殿に迎えました。永徳2(1382)年57歳で亡くなり,その遺言により岡松殿を寺とし,その法名にちなんで大聖寺としました。

 のちに長谷(ながたに,現左京区岩倉)に移り,文明11(1479)年毘沙門町(現上京区)に移り,さらに元禄9(1696)年現在地に移りました。

 代々の門跡は,二十四代450年にわたり内親王によって受け継がれました。特に正親町天皇(おおぎまちてんのう,在位1560〜86)の皇女の入寺にあたり寺格第一位の綸旨(りんじ)を受け,尼門跡の筆頭の地位を保ってきました。明治維新以後は,内親王に代わり公家華族の息女が門跡を継いで今日に至っています。

 枯山水(かれさんすい)の庭園はこの地に戻った翌年の元禄10(1697)年明正天皇(めいしょうてんのう)の形見として下賜されたもので京都市指定文化財。宮御殿は光格天皇(在位1780〜1817)の皇女入寺の際に千両を下賜され,御所風に建立されたものです。本堂は昭和18(1943)年東京青山御所より移築されたものです。

 現在非公開ですが,宸翰(しんかん)・調度品・御所人形・衣裳等の宝物が残されています。

洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)に見る花の御所

 国立歴史民俗博物館蔵の歴博甲本(町田家本)は,現存する洛中洛外図屏風の最古のもので,大永5(1525)年から天文5(1536)年頃の天文法華の乱による被災以前の京都の景観をあらわすとされますが,その中に花の御所の姿が描かれています。

 平成14(2002)年,同志社大学大学会館敷地内(上京区上立売通烏丸角)から16世紀前半の室町殿とみられる遺構が発掘されました。北東角の鬼門(きもん)を守るための祠(ほこら)の基礎とみられています。その祠は,当時の京都を描いた上杉本(米沢市蔵)にも登場します。

花御所八幡宮跡(はなのごしょはちまんぐうあと) 上京区上御霊前通烏丸東入

 花の御所には,その鎮守として源氏(げんじ)の氏神である八幡神が勧請されました。現在,上御霊神社境内にその八幡宮跡を示す石標が建っていますが,もともと勧請されたのは,御所八幡町として町名が残る烏丸通上立売下るの地であったと考えられます。なお,足利尊氏が邸内に勧請した御所八幡宮(中京区御池通堺町通南東角)とは別のものです。


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