花の御所の変遷
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花の御所(京都アスニー蔵洛中洛外図上杉本陶版より) |
足利義満の時代は,室町幕府の最盛期で,隠居して北山第(きたやまてい,現鹿苑寺<ろくおんじ>)に住してからもその権威は絶大なものでした。創建から約25年たった応永13(1406)年,幕府は山城国中に上納金を課して室町第の修理費用にしました。これも存命だった義満の権威により可能だったのです。
さらに永享元(1429)年,六代将軍足利義教(あしかがよしのり)が,花の御所御会所と御会所泉殿を増築し,青蓮院(しょうれんいん,現東山区)の石を花の御所に運ばせました。永享9(1437)年には後花園天皇が行幸しました。その行幸記から花の御所に四足門・中門・寝殿・台盤所・御湯殿・常御所・夜御殿などがあったことがわかります。四足門は室町通に面していました。
宝徳元(1449)年足利義政(あしかがよしまさ)が八代将軍となり,会所が落成し,長禄3(1459)年2月上棟。同年11月室町新邸に移っています。文明6(1474)年義政は,これを九代将軍足利義尚(あしかがよしひさ)に譲って,今出川の小川御所に移りました。
応仁・文明の乱(1467〜77)が起こり,応仁元(1467)年,西軍が室町第を攻撃しました。文明8(1476)年には近くの土倉(どそう)・酒屋が放火されて室町第も全焼しました。この時には近接する禁裏や公家・武家・門跡寺院の多くも罹災しました。
のち再建のため文明11(1479)年には,管領(かんれい)を惣奉行として諸国に上納金を課して造営費を捻出し,寝殿を造りました。しかし,翌年にまた類焼し,文明13年に周囲に築地を建造するまでに至りましたが,どの程度に再興したかは不明です。
長享2(1488)年には,花の御所の焼け跡が夜盗の集会する所となり,庶民の住居にするかどうか問題となったといいます。数年後には庶民の家もこの附近に立ち並ぶようになったようです。
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