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八条院町とは,鎌倉時代後期から室町時代にかけて現京都駅一帯にあった町です。平安後期に造られた八条院(はちじょういん)ワ子(しょうし)内親王(1137〜1211)の御所跡にできたことからこう呼ばれました。 建暦元(1211)年,八条院が没するとすぐに,御所や周囲の院庁・御倉は荒廃し,東洞院大路(ひがしのとういんおおじ)に面する築垣を撤去して民家が建ち並び,築垣の中には畑もつくられました。このようにして町が形成されたのです。 正和2(1313)年八条院領を伝領していた後宇多法皇(ごうだほうおう)は,八条院御所跡を中心とする院町13か所を東寺に寄進しました。ここに東寺領八条院町が成立しました。 院町は東寺の支配下に入りましたが,公家久我(こが)家領をはじめ領地が錯綜して相論が絶えませんでした。東寺の支配下におかれた院町では,年貢徴収など在地支配に直接あたったのは散所(さんじょ)とよばれた隷属民でした。 院町が広がる一帯は,平安末期頃から武具などの店があった商業地でもありました。住人には,番匠(ばんしょう)・塗師(ぬし)・檜皮屋(ひわだや)・紺屋(こんや)などの商工業に携わる人々が多かったようです。 院町は,応仁・文明の乱(1467〜77)を機に農村化していきました。近世には葛野郡(かどのぐん)東塩小路村(ひがししおこうじむら)となり,主に京都で消費される野菜をつくる農地が広がっていました。 |
![]() 八条院(はちじょういん)ワ子(しょうし)内親王は保延3(1137)年4月8日,鳥羽天皇と皇后藤原得子(美福門院<びふくもんいん>)との間に生まれ,釈迦と同日の誕生として祝福を受けました。鳥羽上皇の寵愛をうけ,同母弟近衛天皇の没後,女帝に推されましたが実現しませんでした。応保元(1161)年,二条天皇の准母として院号が下され八条院と称しました。 異母兄の後白河天皇は,美福門院が養育した二条天皇が即位するまでの中継ぎ・傍流的な立場でした。これに対して八条院は,鳥羽・美福門院系の皇統として莫大な経済基盤を有し,独自の政治勢力の拠点となりました。 八条院御所の周辺には,摂政九条兼実(くじょうかねざね)の子良輔(よしすけ)や,平氏政権中枢と対立した平頼盛(たいらのよりもり)などをはじめとする鳥羽・美福門院ゆかりの近臣貴族が集住していました。また,治承・寿永の乱(1180〜85)の口火を切った以仁王(もちひとおう)の皇子女も八条院の猶子として八条院御所で生活していました。 八条院に仕えた女房の記録によると,八条院は温厚な人柄で,女房や貴族・侍たちは気ままに奉仕していたといいます。 |
その後の調査では,建物の柱穴・井戸・ゴミ捨て場や土師器などが確認されました。なかでも注目されたのは200点もの,鎌倉時代から室町時代にかけて作られた漆器類です。その約半数は完全な形で発見され,底に桧の葉を敷き,その上に漆器と大量の箸・土師器(はじき)が埋納されていました。日常に使用した痕跡がなかったため,祭りなどに使用されたものと想像されます。 漆器は中世になると量産が可能になり,安価な品が出回るようになりました。院町跡から発見されたこれらの漆器も京都の民衆が使用していたものと考えられます。 |
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![]() 仁和寺院家の一。双ヶ丘(ならびがおか)南西麓にあった八条院御所常盤殿が寺に改められたもの。承安4(1174)年守覚法親王(しゅかくほっしんのう)を導師として落慶供養されました。建暦元(1211)年6月25日,八条院はこの地において65歳で没しました。 |
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![]() 八条院は蓮華心院で亡くなると,院内に墓が営まれ,翌年6月には墳墓上に宝塔一基が建立供養されました。 墓は蓮華心院北西,御室川(おむろがわ,鳴滝川)右岸に面する小墳(現在地)に近年比定されました。 |