鴨川の歴史
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「京都明細大絵図」(京都市歴史資料館蔵)に見られる寛文新堤。鴨川に架かるのは四条の仮橋。 |
鴨川は,しばしば洪水を起こす川でした。院政を開始し,その権力を思うままにした白河法皇でさえ,「賀茂河の水・双六の賽(すごろくのさい)・山法師,是ぞわが心にかなはぬもの」(『平家物語』)と,天下三不如意(てんかさんふにょい)の第一に鴨川の水をあげたほどです。
鴨川の水害対策として,堤を修理するため天長元(824)年に設置されたのが防鴨河使(ぼうがし)ですが,成果はあまりなかったようです。
寛仁元(1017)年の洪水では,富小路以東が海のようになり,悲田院(ひでんいん,貧窮者や孤児の救済施設)の病人300人が流されました。
慶長14(1609)年,豊臣秀頼は東山の大仏殿再建工事を起こしました。その建築資材は淀川をさかのぼり鳥羽へ着き,そこから陸路を京都へ運ばれましたが,巨大な木は陸揚げ後の輸送が困難でした。これを見た角倉素庵(すみのくらそあん)は父了以(りょうい)と相談し,鴨川に筏(いかだ)を流したり川船を通わせることができるように整備する工事に着手。慶長15(1610)年に完成させました。
この鴨川運河疏通(そつう)により物資の輸送は円滑に行われるようになりました。この成功にはげまされ,了以は高瀬川の開鑿を続いて行ったのです。
寛文9(1669)年鴨川両岸に新しい石堤の築造が開始され,翌年完成しました。この石垣を寛文新堤(かんぶんしんてい)といいます。この護岸工事が行われるまでは,鴨川は左右に河原が広がる自然河川でしたが,堤により河原が市街地化されて,現在の鴨川景観の基礎が作られました。
明治23(1890)年,琵琶湖疏水(びわこそすい)が市内に達して鴨川と合流したのにともない,それを利用した水路として鴨川運河の開鑿工事がなされました。同27年完成し,京都―伏見間の水上動脈となりました。これは第二高瀬川ともいうべきもので,琵琶湖疏水と淀川を直結し,大型生活物資輸送に役立てられました。途中8か所に閘門(こうもん)を設け,翌28年には,伏見インクライン(傾斜鉄道)が完成しました。
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昭和10年洪水時の鴨川。三条大橋下流から北を望む。 |
昭和10(1935)年6月29日,豪雨で京都市内の河川が氾濫し,鴨川でも三条・五条大橋などほぼ9割の橋が流失し,北大路橋・賀茂大橋・七条大橋のみが残りました。この洪水は死傷者83名を数える惨事となりました。今は散策や夕涼みの憩いの場所になった鴨川ですが,水との長い戦いの歴史がありました。 |