鴨川
都市史08

かもがわ
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どんな川

 鴨川は,「賀茂川」「加茂川」とも書き,京都の市街地を南北に貫流する川。上流の上賀茂(かみがも)一帯は古代,賀茂氏の本拠地で愛宕郡(おたぎぐん)賀茂郷があり,賀茂の地名が定着して川名もこれに由来すると考えられます。

 北区雲ヶ畑(くもがはた)の桟敷嶽(さじきがだけ)山中に源を発し,北区上賀茂で京都盆地に入り,出町附近で北東から流れてくる高野川(たかのがわ)と合流。南方に流路を変え,四条附近で白川,最下流部で堀川・西高瀬川を合わせて,伏見区下鳥羽下向島町で桂川に合流します。長さ約23キロメートル。

鴨川の歴史
 「京都明細大絵図」(京都市歴史資料館蔵)に見られる寛文新堤。鴨川に架かるのは四条の仮橋。

 鴨川は,しばしば洪水を起こす川でした。院政を開始し,その権力を思うままにした白河法皇でさえ,「賀茂河の水・双六の賽(すごろくのさい)・山法師,是ぞわが心にかなはぬもの」(『平家物語』)と,天下三不如意(てんかさんふにょい)の第一に鴨川の水をあげたほどです。

 鴨川の水害対策として,堤を修理するため天長元(824)年に設置されたのが防鴨河使(ぼうがし)ですが,成果はあまりなかったようです。

 寛仁元(1017)年の洪水では,富小路以東が海のようになり,悲田院(ひでんいん,貧窮者や孤児の救済施設)の病人300人が流されました。

 慶長14(1609)年,豊臣秀頼は東山の大仏殿再建工事を起こしました。その建築資材は淀川をさかのぼり鳥羽へ着き,そこから陸路を京都へ運ばれましたが,巨大な木は陸揚げ後の輸送が困難でした。これを見た角倉素庵(すみのくらそあん)は父了以(りょうい)と相談し,鴨川に筏(いかだ)を流したり川船を通わせることができるように整備する工事に着手。慶長15(1610)年に完成させました。

 この鴨川運河疏通(そつう)により物資の輸送は円滑に行われるようになりました。この成功にはげまされ,了以は高瀬川の開鑿を続いて行ったのです。

 寛文9(1669)年鴨川両岸に新しい石堤の築造が開始され,翌年完成しました。この石垣を寛文新堤(かんぶんしんてい)といいます。この護岸工事が行われるまでは,鴨川は左右に河原が広がる自然河川でしたが,堤により河原が市街地化されて,現在の鴨川景観の基礎が作られました。

 明治23(1890)年,琵琶湖疏水(びわこそすい)が市内に達して鴨川と合流したのにともない,それを利用した水路として鴨川運河の開鑿工事がなされました。同27年完成し,京都―伏見間の水上動脈となりました。これは第二高瀬川ともいうべきもので,琵琶湖疏水と淀川を直結し,大型生活物資輸送に役立てられました。途中8か所に閘門(こうもん)を設け,翌28年には,伏見インクライン(傾斜鉄道)が完成しました。

昭和10年洪水時の鴨川。三条大橋下流から北を望む。
 昭和10(1935)年6月29日,豪雨で京都市内の河川が氾濫し,鴨川でも三条・五条大橋などほぼ9割の橋が流失し,北大路橋・賀茂大橋・七条大橋のみが残りました。この洪水は死傷者83名を数える惨事となりました。今は散策や夕涼みの憩いの場所になった鴨川ですが,水との長い戦いの歴史がありました。
鴨川付け替え説

 現在高野川(たかのがわ)と鴨(賀茂)川とは今出川出町附近で合流してY字形になっています。しかし,京都盆地が東北に高く西南に低いという地形を考えると人為的に流路を変更したのではないかという推測がなされ,そのような大規模な工事をするのだったら,造都時をおいてほかにないと考えられてきました。現在堀川として京都のほぼ中央を流れている川が,旧鴨川の本流で,これが都城建設過程で高野川に合流させられ,鴨川になったとするものです。

 平安京の真ん中を流れる河川を京外に付け替えるのは,自然の流れに逆らったものです。ですからこうしてできた鴨川には洪水被害が多かったと考えられたわけです。しかし今では,早くから流路は現状と大差なかったとみなされ,付け替え説は否定されています。

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鴨川の源流 北区雲ヶ畑町桟敷嶽附近の山中

雲ヶ畑の鴨川最上流
 鴨川の源流は,北区雲ヶ畑(くもがはた)の桟敷嶽(さじきがだけ)附近に発します。出町附近の高野川との合流点から水源までの距離は約13キロメートルです。水源近くまで行くには,京都バス「雲ヶ畑岩屋橋」行き(出町柳発)があります。
鴨川と高野川の合流地点
賀茂川(左)と高野川(右)の合流点。中央が糺の森

 鴨(賀茂)川・高野川の合流するY字形の三角形の地には下鴨神社の糺(ただす)の森の緑があり,両川とともに美しい景観をつくっています。この場所を俗に「剣先」(けんさき)というのは,2つの川の間のY字を刀の先端に見たてたからです。

 その合流点より上流を「賀茂川」,下流を「鴨川」と現在は表記しています。歴史的にはそういう区別はみられず,上流を「鴨川」,下流を「賀茂川」「加茂川」と書く例はたくさんあります。

桂川との合流点

 高野川と合流した後は,南方に流路を変え,四条附近で白川,最下流部で堀川・西高瀬川を合わせて,伏見区下鳥羽下向島町で桂川に合流します。

山紫水明処(さんしすいめいしょ) 上京区東三本木通丸太町上る
山紫水明処

 丸太町橋に立って,西北の鴨川畔に眼をやると藁(わら)屋根で入母屋造(いりもやづくり)の建物があります。これが山紫水明処で,文化文政時代の儒学者頼山陽(らいさんよう,1780〜1832)の晩年の居宅であった水西荘(すいせいそう)に附属した一棟の書斎です。

 「山は紫にして水明し(あけらかし)」という名前は,京都の特質というべき,鴨川と東山の美しさを言い表している言葉で,現在も京都の形容として盛んに用いられる言葉です。この地が鴨川を目の前にし,東山を遠望する場所であることから名付けられました。国指定史跡として保存され,限定公開されています。ここで『日本外史』(にほんがいし)等が書かれました。

目疾地蔵(めやみじぞう) 東山区四条通大和大路東入

 四条通,鴨川東にある仲源寺(ちゅうげんじ)の本尊。寺伝によれば,安貞2(1228)年8月の洪水の際,防鴨河使(ぼうがし)の勢多為兼(せたためかね)が地蔵菩薩のお告げで治水に成功したので,これを安置して雨止地蔵(あめやみじぞう)と名付けました。のちに転じて目疾地蔵(めやみじぞう)になり,眼病を癒す地蔵尊として信仰されたといいます。「畔(くろ)の地蔵」ともいわれ,四条橋の東北辺りにありましたが,秀吉の命令で現在地に移ったといいます。


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