鳥羽離宮
都市史07

とばりきゅう
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鳥羽離宮って何?

鳥羽離宮復元模型(京都市制作平安京模型のうち)
 鳥羽離宮(鳥羽殿<とばどの>)は,白河天皇(1053〜1129)が創建した譲位後の御所です。現在の京都市南区上鳥羽(かみとば),伏見区竹田・中島・下鳥羽(しもとば)一帯にありました。鳥羽上皇(1103〜56)の代にほぼ完成し,14世紀頃まで代々院御所として使用されました。

 敷地は約百八十町(180万平方メートル)。鳥羽殿を構成する南殿・北殿・泉殿・馬場殿・田中殿などの御所には,それぞれ御堂が附属し,広大な池を持つ庭園が築かれました。

 讃岐守高階泰仲(たかしなのやすなか)ら受領層(ずりょうそう)が造営を請負い,資材が諸国から集められました。また,院の近臣をはじめとする貴族から雑人に至るまで,鳥羽殿周辺に宅地が与えられ,仏所や御倉町(みくらまち)なども造られたので「あたかも都遷(みやこうつり)の如し」だったといわれています。

 院政期の鳥羽は,京・白河とともに政治・経済・宗教・文化の中心地だったのですが,南北朝の内乱期,戦火により多くの殿舎が焼失し,その後急速に荒廃していきました。

 昭和38(1963)年の名神高速道路京都南インターチェンジ建設以後,附近一帯の景観は一変しました。

鳥羽離宮御堂一覧
名称 成立年 発願者 御所
証金剛院(しょうこんごういん) 康和3(1101)年 白河上皇 南殿
成菩提院(じょうぼだいいん) 天承元(1131)年 鳥羽上皇 泉殿
勝光明院(しょうこうみょういん) 保延2(1136)年 鳥羽上皇 北殿
安楽寿院(あんらくじゅいん) 保延3(1137)年 鳥羽上皇 東殿
金剛心院(こんごうしんいん) 久寿元(1154)年 鳥羽上皇 田中殿
鳥羽ってどんな所?

 かつて鴨川(かもがわ)は竹田の東側を流れ,下鳥羽の南で桂川と合流していました。この旧鴨川と桂川の合流点附近に位置する鳥羽の地は,陸路は山陽道,水路は淀川を経て瀬戸内海へ通じる水陸交通の要所でした。運ばれてくる物資の多くは,都に最も近い鳥羽の港で陸揚げされました。

 京と鳥羽の間はおよそ3キロメートル。平安京造都時に朱雀大路を真南に延長させて整備したと考えられる「鳥羽の作道」(とばのつくりみち)は,平安京羅城門から鳥羽へ至る幹線道路となりました。

 鳥羽は水郷が広がる風光明媚な場所だったので,狩猟や遊興の地としても知られました。10世紀初頭には左大臣藤原時平が別業「城南水閣」(せいなんのすいかく)を,11世紀には備前守藤原季綱(すえつな)が山荘を営みました。季綱が白河天皇に献上した地を中心に営まれたのが鳥羽殿です。

天皇の墓所

 鳥羽殿を営んだ白河上皇は,東殿に自らの墓所として三重塔を建立しました。鳥羽上皇は,白河上皇の例にならい,安楽寿院に三重塔(本御塔<ほんみとう>)を,続いて新御塔(しんみとう)を築きました。

 保元元(1156)年,鳥羽上皇が安楽寿院で亡くなると,遺言に従い本御塔に埋葬されました。新御塔は,美福門院(びふくもんいん,鳥羽天皇皇后)の墓所に予定して建立されていましたが,女院は高野山に葬られたため,新御塔には女院と鳥羽上皇との間に生れた近衛天皇(このえてんのう)の遺骨が埋葬されました。

 鳥羽殿は,院政を始めた白河・鳥羽二代の上皇と,鳥羽・美福門院系統の天皇の墓所という性格も備えていました。

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鳥羽離宮跡(とばりきゅうあと) 南区・伏見区
鳥羽離宮復元図
(平安京探偵団 http://homepage1.nifty.com/heiankyo/ より転載)
 

 鳥羽殿の築山跡と考えられている「秋の山」(伏見区中島御所ノ内町)を中心とする一帯は,現在,鳥羽離宮公園として整備されています(国指定史跡)。また,石標「白河法皇・鳥羽法皇院政の地」が伏見区竹田浄菩提院町に,「鳥羽離宮田中殿跡」が伏見区竹田田中殿町(田中殿公園内)に建立されています。田中殿とは鳥羽上皇の皇女八条院の御所です。

 鳥羽殿跡の発掘調査は,名神高速道路建設に際し,昭和35(1960)年から始められました。奈良文化財研究所所長藤田亮氏のもと,同研究所の杉山信三氏らを中心として調査がすすめられ,昭和37年には田中殿の遺構が発見されました。

 その後,杉山氏によって設立された鳥羽離宮跡調査研究所は,昭和47年以降毎年継続調査を行い,これまでにたくさんの遺跡や遺物を発掘しています。なお同研究所は,現在,財団法人京都市埋蔵文化財研究所が引き継いでいます。

安楽寿院(あんらくじゅいん) 伏見区竹田中内畑町
安楽寿院

 真言宗智山派。市指定史跡。本尊は阿弥陀如来坐像(重要文化財)。

 安楽寿院は保延3(1137)年,鳥羽上皇の御願によって東殿に創建された御堂です。翌々年,院の近臣藤原家成が造進した三重塔(本御塔)の落慶供養が行われ,九体阿弥陀堂,新御塔,不動堂も相次いで建設されました。本御塔は,のち鳥羽上皇の墓所となりました。

 安楽寿院には多くの荘園が寄進されました。これらの荘園は安楽寿院領と呼ばれ,鳥羽上皇から,美福門院との間に誕生した皇女八条院に譲られました。安楽寿院領を中心とした八条院領は,女院の猶子などの手を経て亀山上皇に伝えられ,大覚寺統の重要な資産となりました。

 その後,安楽寿院はたびたび災禍に遭い衰微しましたが,豊臣秀吉・秀頼父子が再興。鳥羽・伏見の戦(1868年)では官軍の本営となりましたが,兵火を免れました。しかし,わずかに残っていた諸堂も,昭和36(1961)年の第2室戸台風などで倒壊し,のち本堂が再建されました。

 弘安10(1287)年2月の銘がある五輪塔(重要文化財)や,室町末期から近世初期の作と考えられる鳥羽上皇・美福門院・八条院の肖像画などがあります。

鳥羽天皇安楽寿院陵 伏見区竹田浄菩提院町

 鳥羽殿で亡くなった鳥羽上皇は,遺言に従って安楽寿院の三重塔(本御塔)に埋葬されました。この塔は白河天皇陵にならって,鳥羽上皇が造営したものですが,永仁4(1296)年に焼亡。現在の御陵は元治元(1864)年に造営された法華堂です。

近衛天皇安楽寿院南陵 伏見区竹田浄菩提院町
近衛天皇安楽寿院南陵

 近衛天皇の遺骨は安楽寿院に所属して建立された新御塔に納められています。この塔は鳥羽天皇の皇后だった美福門院(1117〜60)の墓所に予定されていましたが,女院が高野山に埋葬されたため,息子近衛天皇(1139〜55)の遺骨が知足院(ちそくいん,北区紫野)から改葬されました。現在の建物は慶長11(1606)年,豊臣秀頼によって再建された多宝塔です。

白河天皇成菩提院陵 伏見区竹田浄菩提院町

 白河上皇はこの地に自らの墓所として三重塔を建立しました。上皇は大治4(1129)年に亡くなると,火葬後,遺骨は一旦香隆寺(こうりゅうじ,北区)に埋葬されました。三重塔に付属して御堂成菩提院が完成すると,遺言に従って同塔内に改葬されました。

 御陵は現在33メートルの正方形ですが,発掘調査によりもとは一辺56メートルの正方形,周囲には幅約8メートルの堀が巡らされていたことがわかりました。

北向不動院(きたむきふどういん) 伏見区竹田浄菩提院町

 寺伝によると,大治5(1130)年鳥羽上皇の勅願により建立。本尊不動明王は覚鑁(かくばん,興教大師)作と伝え,王城鎮護のため北向きに安置されたことから,「北向不動尊」と呼ばれたといわれています。

 もとは天台宗延暦寺末寺でしたが,現在は単立寺院。今の建物は,正徳2(1712)年,東山上皇の寄進によるもの。

 なお,鳥羽上皇の誕生日正月16日には大護摩が修されています。俗に「一願の護摩」と呼ばれ,参詣すると一つの願いが叶うと伝えられています。

西行寺跡(さいぎょうじあと) 伏見区竹田西内畑町(地蔵堂前)

 この地は西行(俗名佐藤義清<のりきよ>)が鳥羽上皇の北面の武士であった頃の邸宅跡と伝えられています。江戸時代には庵室(西行寺)が建てられ,境内には月見池・剃髪堂がありました。明治11(1878)年観音寺(伏見区竹田西内畑町)に併合。観音寺には西行法師像といわれる坐像が安置され,この地には西行寺跡を示す石標が建てられています。

城南宮(じょうなんぐう) 伏見区中島鳥羽離宮町

 祭神は息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)・八千戈神(やちほこのかみ)・国常立尊(くにとこたちのみこと)。方除けの神として知られています。

 創建は諸説あり,平安京遷都時に王城守護のため創祀されたとも,城南寺の鎮守神として創祀されたともいわれます。毎年9月20日に行われる祭礼は「鳥羽城南寺明神御霊会(ごりょうえ)」と呼ばれ,祈雨の祈願や競馬(くらべうま)が盛大に行われました。

 応徳3(1086)年鳥羽離宮(鳥羽殿)が造営されると,その鎮守社となり,競馬や流鏑馬(やぶさめ)は離宮の年中行事として引き継がれ,毎年5月に催されました。

 この行事に名を借りて,「流鏑馬汰へ」(やぶさめぞろえ)と称して近国の武士を城南寺に集め,承久3(1221)年,後鳥羽上皇が倒幕を謀ったこと(承久の乱<じょうきゅうのらん>)はよく知られています。

 その後,城南宮は鳥羽離宮の衰退によって,上鳥羽・下鳥羽・竹田三か村の産土神(うぶすながみ)として崇敬されるようになりました。

 明治10(1877)年,式内社真幡寸神社(まはたきじんじゃ)として認定され,社名を改めましたが,昭和27(1952)年再び城南宮と称しました。真幡寸神は平安京遷都以前からこの地に勢力を張っていた秦氏の氏神と考えられています。真幡寸神社は,現在城南宮境内に摂社として本殿東隣に祀られています。


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