条坊制
都市史03

じょうぼうせい
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条坊制とは?

条坊制とは,中国のみやこの制度にならって日本古代のみやこで施行された碁盤目状の都市区画です。藤原京で確認されていますが,それ以前は不明です。

平安京の条坊制
 右京のひとつの坊を図示したもの。一坊が4つの保に区分され,さらに一保は四町に区分されている。
 下の平安京条坊図の碁盤の目のような四角が一町である

平安京の範囲,つまり条坊制が施された範囲は,東西約4.5キロメートル,南北約5.2キロメートルで,大内裏(だいだいり)と羅城門(らじょうもん)を結ぶ中央に朱雀大路(すざくおおじ,幅約84メートル)を南北に走らせ,それを境に左京と右京に二分しました。

 平安京の範囲は,朱雀大路を中心に南北に走る計9本の大路と,これらと直交しながら東西に走る一条〜九条の大路および土御門大路(つちみかどおおじ)・中御門大路(なかみかどおおじ)の計11本の大路によって,大きく区画されました。

 このような大路によって区分された東西列を条,南北列を坊と呼び,またこの大路に囲まれた一辺が百八十丈(約550メートル)の区画も坊といわれました。平安京の条坊は左京・右京それぞれに九条と四坊ですが,北に半条分の北辺坊(ほくへんぼう)がつきました。

 区画としての坊は,朱雀大路に近い方から左京は東へ,右京は西へそれぞれ一坊〜四坊と順に呼びました。律令制では,京職(きょうしき)の管轄下に置かれ,各坊に,坊長(ぼうちょう)1人,各条の四坊ごとに坊令(ぼうれい)1人が任じられ,戸口(ここう)の監督や税の取り立てなどにあたりました。

 中国では,坊ごとに周囲をとりまく坊城(垣)が築かれ,4つの坊門が開かれていましたが,平安京では坊城が築かれたのは,朱雀大路に面する左右両京の各条第一坊に限られていました。

 一つの坊をさらにたてよこ各3本の小路(幅約12メートル)で16区分し,その一区画を町(ちょう)としました。町は,朱雀大路側の北から南に千鳥式に1〜16まで数え,「左京三条四坊二町」のように位置表示されました。一町の規模は道路を除いて一辺四十丈(約120メートル)と固定されていました。四町をひとつの単位としたものを保といいました。一坊=四保=十六町というわけです。

 町の中はさらに細分化され,四行八門制(しぎょうはちもんせい,四行は一町を東西に四分,八門は一行を南北に八分)によって32区分されました。宅地単位としては,これが最小の単位で一戸主(へぬし)と呼ばれました。一戸主は,南北五丈・東西十丈の細長い敷地になります。また,一般の町には1本,大路に接する町には2本,市町(いちまち)には3本の小径が設けられました。

 このような条坊制で区画された平安京の中に,大内裏以外に,八町を占める神泉苑,各十二町の東西の市,各四町の東寺と西寺,京中官衙にあてられた坊町などがありました。

平安京の京域はどのように定められたか?

東にある鴨川の流れを青龍(せいりゅう)になぞらえ,西にある山陰道を白虎(びゃっこ)になぞらえ,北にある船岡山(ふなおかやま)を玄武(げんぶ)になぞらえ,南にある巨椋池を朱雀(すざく)になぞらえ,青龍・白虎・玄武・朱雀の四神が周囲に揃い,都の四方を護ってくれるといわれました。その京域について,もう少し詳しく見てみましょう。

 平安京の京域の決定は,既存の道を基準に決めた藤原京や平城京ほど明確ではなく,諸条件が勘案されてできたと見られます。

 まず双ヶ丘(ならびがおか,現右京区)が西辺を限定しました。北にある船岡山は,朱雀大路(現千本通)の真北に位置しているところから,これが京域を定める上で基準になったとも考えられています。しかし,京域の北辺が船岡山よりかなり南に設定されたのは,嵯峨野方面へ通じる既存の道を無視できなかったためと思われ,それが北辺を規定したと思われます。そして鴨川の流路が東を限定しました。

 古道を基準にした説もあり,特に「鳥羽(とば)の作り道」が有名です。洛南鳥羽を南北に一直線に走る道で,それを北にたどれば,千本通に接続し,その接点が羅城門です。『徒然草』に「鳥羽の作り道は,鳥羽殿たてられて後の号にはあらず,むかしよりの名なり。」とあり,遅くとも10世紀はじめにはあったと考えられていますが,造都以前にさかのぼることができるかどうか断定できません。この道は,単に朱雀大路を南へ延長した結果として作り出された道と考えた方がよく,船岡山が基準であったとする方が説得力があるようです。

宮域の変更

 中山忠親(なかやまただちか)の日記『山槐記』長寛2(1164)年6月27日条に,「(平安京の)北辺は一条(大路)の南,土御門(大路)の北なり。昔,土御門をもって一条大路となす。その後,北辺の二丁(が)宮城に入る。既に京中たり。」とあります。

 これによれば,大内裏の北辺を東西に走る一条大路(北辺大路)は昔からのものではなく,もとは土御門大路(つちみかどおおじ)が一条大路の名で呼ばれ,またその後,一条大路を北に二丁(約200メートル)移動して大内裏域を拡張した結果,京域の北辺大路が新たに一条大路と称されるようになったといっています。このことは,平安京が藤原京と同じく大内裏の北側に空地をもつ構造であったことを示すものです。指図に残る平安京は変更後の姿ということになります。北辺まで大内裏が延びた時期はおおよそ9世紀後半と推定されます。

 桓武天皇創始の平安京は,9世紀後半に変更がなされ,元来12門であった門が2門増えて,14門となり,一条大路は,北に半条分延長された北辺の大路となり,かつての北辺の一条大路が土御門大路となったことになります。

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舟岡山(船岡山) 北区紫野北舟岡町ほか

 高さ約112メートル,周囲約1300メートルの小丘で,東麓にはもと大池があり,池に浮かぶ船のように見えたので,この名がついたといいます。清少納言は『枕草子』で「丘は船岡」といい,清浄の地として知られていました。

 織田信長を祀る建勲神社の後方,船岡山頂上に磐座(いわくら)があります。現在は祭祀の形跡をとどめていませんが,古くは信仰の対象であったと伝えられます。真南に平安京朱雀大路が走り,京域設定にあたっての基点であったと考えられています。国指定史跡。

残存する平安京指図(さしず,図面)

 九条兼実(くじょうかねざね)の日記『玉葉』(ぎょくよう)によれば,平城京の指図が少なくとも平安末期までは伝えられていましたが,現在残る都の指図の最古のものは平安京のもので,摂関家の近衛家と九条家に伝えられています。ともに鎌倉期の写しですが,手本とされたものは平安期の指図であったと考えられます。

 近衛家の指図は陽明文庫(ようめいぶんこ,右京区宇多野上ノ谷町)が所蔵し,九条家の指図は東京国立博物館が所蔵しています。

平安京の坊名と大路・小路名

 各坊には,桃花坊(とうかぼう)・銅駝坊(どうだぼう)・教業坊(きょうぎょうぼう)等の中国風の坊名が付けられ,銅駝・教業・淳風(じゅんぷう)・安寧(あんねい)・崇仁(すうじん)・陶化(とうか)・光徳(こうとく)の坊名は京都市内の学区名になっています。これらの名は,唐代の長安城や洛陽城の坊名からとったものが多いようです。

 大路には,壬生(みぶ)・大宮・東洞院(ひがしのとういん)・西洞院(にしのとういん),小路には猪熊(いのくま)・堀川(ほりかわ)・室町(むろまち)・高辻(たかつじ)・綾小路(あやのこうじ)・錦小路(にしきこうじ)などの名称が次第に付けられるようになり,現在の通り名にも継承されています。

平安京条坊図

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