長岡京
都市史02

ながおかきょう
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長岡京とは?

 延暦3(784)年11月から延暦13(794)年10月まで,山背国(やましろのくに)乙訓郡(おとくにぐん)長岡村(現在の京都府長岡京市<ながおかきょうし>・向日市<むこうし>あたり)を中心として,桓武天皇(かんむてんのう)の命により造営された都。現在の向日市域に政治の中心地となった大内裏が置かれ,また長岡京市域には経済の中心となった東西二つの市(いち)がありました。都の西南にあたる京都府乙訓郡大山崎町(おおやまざきちょう)附近には山崎津(やまざきのつ),東方にあたる京都市伏見区には淀津(よどのつ)などの水陸運の要所が展開され,さらに現在の京都市南区・西京区域をも含む,東西約4.3キロメートル,南北約5.3キロメートルを範囲とする都でした。

長岡京造都

 長岡京以前の都である平城京(へいぜいきょう)は,水上交通路が不便で,人口が増えるに従って必要物資の調達に困難をきたすようになりました。また,政権と結びついた仏教勢力が強くなりすぎたので,桓武天皇は新しい都へ移ることを考えました。そこで,水陸の交通に便利で,側近の藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の姻戚関係にある秦氏(はったうじ)の本拠地であり,その積極的な協力の得られる長岡の地が選ばれたと考えられています。

 延暦3(784)年5月に,桓武天皇は視察団を長岡村に遣わし,同年6月には藤原種継を造長岡宮使(ぞうながおかきゅうし)の長官に任じ,11月には平城京より長岡京に遷都しました。翌延暦4(785)年正月までには,大極殿(だいごくでん)・内裏(だいり)も完成して,元日に朝賀の義が行われました。これら宮域の中枢部の施設は,後期難波宮(なにわのみや,聖武朝)から移築されたものと考えられています。

藤原種継暗殺事件

 藤原種継は,藤原四兄弟の三男宇合(うまかい)の孫で,清成(きよなり)を父としました。桓武天皇の父光仁天皇を擁立した藤原百川(ももかわ)は叔父にあたります。種継の伝には「天皇はなはだこれを委任す,中外の事皆取り決むるなり,初め主として建議し長岡に遷都す」とあり,桓武天皇の側近中の側近であり,長岡京への遷都は種継の主導するところであったことが知られます。 

 種継暗殺事件は,長岡京造都の最高責任者として尽力していた延暦4(785)年9月23日に起こりました。造都が本格的に行われ始めた直後のことでした。遷都の建言者であり,造都の推進者であった種継の死が事業の遂行の妨げになったことはまちがいありません。

 実行犯や共犯者は捕えられ死罪となり,その背後にいたとされた大伴家持(おおとものやかもち)は既に死亡していたにもかかわらず官位を奪われ,その子等も流罪となりました。逮捕者は春宮大夫(とうぐうだいぶ)であった家持はじめ皇太子関係者であったため,皇太子早良親王(さわらしんのう,桓武天皇の弟)に嫌疑がかけられ,親王は乙訓寺(おとくにでら)に幽閉され,絶食して無実を訴えたまま淡路に流される途中で衰弱死しました。

長岡京棄都

 延暦11(792)年9月と11月に,桓武天皇は山背国葛野郡(かどのぐん)宇太(うた)村を遊猟にことよせて視察し,翌年正月に藤原小黒麻呂(おぐろまろ)等を遣わし,直後に長岡京の内裏を壊すために他所へ移りました。同年2月には賀茂・伊勢へ奉幣し,先祖の陵に遷都の奉告をしました。

 その後も新京の地をたびたび巡覧しましたが,実際に移ったのは延暦13(794)年10月でした。長岡京への遷都は早々となされましたが,平安京へは2年をかけて慎重に移りました。ここに長岡京は10年で廃されることになりました。

 長岡京を棄てた理由としてよく説かれるのが怨霊(おんりょう)説です。藤原種継暗殺事件による早良親王配流以後,桓武夫人藤原旅子・生母の高野新笠(たかののにいがさ)・皇后藤原乙牟漏(おとむろ)が相次いで亡くなり,皇太子安殿親王(あてしんのう,のちの平城天皇)も重病となりました。それら一連のことが早良親王の祟りによるとされました。

 また,延暦11(792)年に長岡京で二度の大洪水がありました。それらも早良親王の祟りによるとされました。そこで和気清麻呂(わけのきよまろ)の進言をいれて,宇太の地,すなわち平安京に再遷都したとするものです。

 平安京に遷都したのちの延暦19(800)年,早良親王に崇道天皇(すどうてんのう)の名を追贈し祟りを避けようとしました。弟を死なせたことが,いかに桓武天皇に大きな影響を与えていたかがわかります。このことが長岡京放棄を考え,個人的心情において平安遷都の大きな原因になったことは否定できません。

 記録上の遷都理由は,早良親王の怨霊に対する怖れしか知ることはできません。しかしそれ以外にも,造都が計画通り進行しなかったことに対する焦燥感があったともいわれます。

 和気清麻呂の伝には,都(長岡京)は10年たっても未完成であったとし,延喜14(914)年の三善清行(みよしのきよゆき)「意見封事十二箇条」には長岡京の造営は終っていたと記します。

 近年における発掘調査の成果から,長岡京が「未完の都」ではなく主要部分は整備されていたことが知られていますが,平安時代の貴族・官人の間でも長岡京の評価はまちまちであったことを示すものです。

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長岡宮跡 向日市鶏冠井町
長岡京大極殿遺址
 

 昭和37(1962)年に発掘された長岡宮大極殿跡(だいごくでんあお)とその後殿(小安殿)跡は,史跡公園として整備され「大極殿公園」と呼ばれています。阪急西向日駅の北約300メートルで国指定史跡。

 この公園に立っている「長岡京大極殿遺址」と記した石碑は,明治28(1895)年に現在地の北に建てられたものですが,その後の発掘結果から現在地に移建されました。

 大極殿跡の近くには,内裏内郭築地跡や朝堂院西第四堂跡,築地跡などがあり,国の史跡に指定され,史跡公園として整備されています。

大原野神社(おおはらのじんじゃ) 西京区大原野南春日町

 桓武天皇皇后の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)は,出身の藤原氏が奈良の春日神社を氏神としたので,長岡遷都と同時に造宮使長官藤原種継に命じて,春日の神を長岡京の近郊に勧請しようとしました。

 種継は自分の母の出身地である大原野の秦氏(はたし)に命じて,神社の土地と神領を献上させて,秦氏の住む村の西の山裾に大原野神社を勧請しました。のち藤原氏出身の皇后や中宮は,この神社に参拝するのを例としました。京都市指定史跡。

乙訓寺(おとくにでら) 長岡京市今里三丁目

 真言宗豊山派の寺で大慈山と号し,法皇寺ともいいます。早良親王の幽閉地として有名です。

 推古天皇の勅願により聖徳太子が創建したと伝えられています。一時,空海が別当を務めたことから真言宗となりました。本尊の弘法大師像は,大師と八幡神の合作とされ,合体御影の名があります。足利義満が禅宗に改めましたが,江戸時代前期に桂昌院(けいしょういん,五代将軍徳川綱吉生母)の援助で再興し,真言宗に復しました。

 昭和41(1966)年の発掘調査で僧坊・講堂とみられる遺構を検出しました。奈良末・平安期の遺物も多数出土しました。

崇道神社(すどうじんじゃ) 左京区上高野西明寺山

 種継事件に連座して非業の死を遂げた早良親王の怨念は,兄桓武天皇にまつわりついて離れなかったといわれます。晩年に桓武は,早良親王に崇道天皇の名を贈りました。

 洛北上高野(かみたかの)の崇道神社はこの崇道天皇を祀る神社です。一説には小野神社の旧地といわれ,本殿後方の山中に小野妹子(おののいもこ)の子毛人(えみし)の墓(京都市指定史跡)があり,慶長18(1613)年石棺中から銅板墓誌(国宝)が発見されました。

長岡京の発掘調査

 長らくその正確な位置関係が不明であった長岡京でしたが,中山修一(なかやましゅういち,西京高校教諭,のち長岡京史跡調査研究所長)による発掘調査が昭和29(1954)年,朝堂院南門跡から始められ,今までに宮城と京域を合わせて1600回を超える調査が行われています。以前は宮都としてどこまで整備されていたか疑問視されていましたが,都城の体裁がかなり整っていたことが判明しています。

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 右の図は長岡京京域図。四角で囲まれたおおまかな範囲が京域。○を附した所が大極殿跡。
*国土地理院発行数値地図25000(地図画像)を複製承認(番号平14総複第494号)に基づき転載。

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