長岡京棄都
延暦11(792)年9月と11月に,桓武天皇は山背国葛野郡(かどのぐん)宇太(うた)村を遊猟にことよせて視察し,翌年正月に藤原小黒麻呂(おぐろまろ)等を遣わし,直後に長岡京の内裏を壊すために他所へ移りました。同年2月には賀茂・伊勢へ奉幣し,先祖の陵に遷都の奉告をしました。
その後も新京の地をたびたび巡覧しましたが,実際に移ったのは延暦13(794)年10月でした。長岡京への遷都は早々となされましたが,平安京へは2年をかけて慎重に移りました。ここに長岡京は10年で廃されることになりました。
長岡京を棄てた理由としてよく説かれるのが怨霊(おんりょう)説です。藤原種継暗殺事件による早良親王配流以後,桓武夫人藤原旅子・生母の高野新笠(たかののにいがさ)・皇后藤原乙牟漏(おとむろ)が相次いで亡くなり,皇太子安殿親王(あてしんのう,のちの平城天皇)も重病となりました。それら一連のことが早良親王の祟りによるとされました。
また,延暦11(792)年に長岡京で二度の大洪水がありました。それらも早良親王の祟りによるとされました。そこで和気清麻呂(わけのきよまろ)の進言をいれて,宇太の地,すなわち平安京に再遷都したとするものです。
平安京に遷都したのちの延暦19(800)年,早良親王に崇道天皇(すどうてんのう)の名を追贈し祟りを避けようとしました。弟を死なせたことが,いかに桓武天皇に大きな影響を与えていたかがわかります。このことが長岡京放棄を考え,個人的心情において平安遷都の大きな原因になったことは否定できません。
記録上の遷都理由は,早良親王の怨霊に対する怖れしか知ることはできません。しかしそれ以外にも,造都が計画通り進行しなかったことに対する焦燥感があったともいわれます。
和気清麻呂の伝には,都(長岡京)は10年たっても未完成であったとし,延喜14(914)年の三善清行(みよしのきよゆき)「意見封事十二箇条」には長岡京の造営は終っていたと記します。
近年における発掘調査の成果から,長岡京が「未完の都」ではなく主要部分は整備されていたことが知られていますが,平安時代の貴族・官人の間でも長岡京の評価はまちまちであったことを示すものです。
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