その業績は?
秦氏は,高度な技術力と豊富な経済力をもっていたため,桂川に灌漑用の大堰を作って嵯峨野(さがの)一帯を開墾し,養蚕や機織などの新しい技法を伝えました。
7世紀始めに財力を蓄えた秦河勝(はたのかわかつ)は,聖徳太子から仏像を賜って,太秦に蜂岡寺(はちおかでら,現広隆寺)を建立しました。このような技術力や経済力をもった秦氏の中には,奈良時代に官僚になったり,中央貴族と姻戚関係を結んだりするものもいました。
桓武天皇は,延暦3(784)年,仏教色に染まりすぎた平城京を離れて新しい地を求めて,山背国(やましろのくに)乙訓郡(おとくにぐん)長岡に遷都を行いました。秦氏は,造宮長官藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の母が秦氏の娘であったため,造都に全面的な協力をしたといわれています。
長岡京は10年で廃され,同じ山背に平安京が造られますが,そこでも新都建設に秦氏が尽力し,秦氏の本拠地であった桂川一帯は,建設に必要とする材木の陸揚げ基地となりました。
長岡京は,都としてどこまで整備されていたか疑問視されていましたが,近年の発掘調査で都城形体がかなり整っていたことがわかっています。再度平安京へ遷都するのにはかなりの困難が伴ったはずです。それをやり遂げた桓武天皇の背後には,山背地域を本拠として高度な技術力と財力をもっていた秦氏がいたからできたことだといわれています。
内裏の紫宸殿(ししんでん)前の「右近の橘」(うこんのたちばな)は,秦河勝の邸宅にあったという伝承があります。これは,早くから山城盆地に住んでいた秦氏が,内裏にあてられるようないい土地を所有していたということを示す伝承です。
平安京遷都後の秦氏は,官僚として活躍し,主計寮・大蔵省・内蔵寮の役人として名が残っています。元慶7(883)年,秦氏は惟宗朝臣(これむねのあそん)に改姓し,明法家を輩出します。各地方には秦姓も多く,在庁官人や郡司として名を残しています。
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