瑞光院遺躅碑 碑文の大意
 石碑の「碑」の字は「悲」と同音で,この碑は悲しみを述べるものである。わたし(筆者浅野長祚)の宗家(赤穂藩主浅野家)の家臣大石良雄のことを思えば,そのこころざしに誰もが悲哀の感を持つ。
 京都の西北,紫野の大徳寺に瑞光院という塔頭がある。わが宗家の菩提寺である。元禄14年に宗家は廃絶し,良雄は山科村に仮ずまいした。京都からわずかの距離である。そこで瑞光院住職の宗湫禅師と協力し,冷光府君(浅野長矩)の墓を瑞光院に作り,さらに忠義の心をもって主君の恨みをはらしたいと誓った。また言うことは,恨みをはらすことができたら安心して死に就ける。死んでも魂魄はどこへでも行けるので,その時には禅師よわが魂魄を地下から招きよせよ。亡き主君への弔いに陪席できたらそれで願いは満たされるのだと。
 良雄はしばらく山科に住んだあと辞去し江戸へおもむき,他の浪士とともに主君の恨みをはらした。禅師はこの報を聞きおどりあがって喜んだ。良雄らが切腹する一月前にある僧侶を江戸へ遣わし,一同の髪の毛や鬚を京都へ持ち帰らせ,主君の墓石のそばにうずめ,46柱の碑を建てた。碑には浪士それぞれの名を刻み法事を行った。これもひとえに良雄の遺志を果たしたものである。良雄のこころざしはまことに悲しむべきものであるが,禅師のごときは一貫してその宿願を果たさせた者というべきである。しかし禅師が亡くなってからは世話をする人もなく寺は荒廃し,浪士の碑もすべて壊れてしまった。
 大綱尊者は現代の名僧である。大徳寺黄梅院の住職となり,あわせて瑞光院を管理した。良雄のこころざしに感じ入り,再興資金を募ったところ,零細な寄附がしだいに積もり,癸丑の年(嘉永6年)に廃寺になった瑞光院の跡地に復興することができた。復興のあと,わたしの文章を石碑に刻み後世に残したいと依頼があった。
 わたしは浅野長矩の子孫の地位を汚し,元禄の変(赤穂浪士事件)の経緯は熟知していた。良雄らの事を口にする時には常に涙にくれていた。大綱尊者は以前から良雄のこころざしを悲しみ,今回の再興に至ったのである。尊者の依頼を聞き入れ良雄のこころざしの悲しむべきことを記すのは当然のことである。