山階寺跡

YA093

やましなでらあと
石碑(0027833)石碑周辺(0027834)

 この石標は,藤原鎌足によって創建された山階寺の地を示すものである。山階寺については,石標の横に設置された解説パネルに最新の研究成果が記されているのでこれに譲る。

所在地山科区御陵大津畑町
位置座標北緯34度59分23.7秒/東経135度48分41.0秒(世界測地系)
建立年2008年
建立者おこしやす“やましな”協議会
寸 法高105×幅18×奥行18cm
碑 文
[南]
山階寺跡(推定地)
[西]
平成二十年三月建立
  おこしやす“やましな”協議会
[碑側解説パネル]
     山階寺跡推定地
 山階寺は七世紀後半、藤原鎌足により創建された寺
院。中大兄皇子(天智天皇)と共に大化改新を成し遂
げた鎌足の「山階陶原家付属の持仏堂」が始まりと
推定される。
 奈良時代の興福寺に関する史料(『興福寺流記』所引
「宝字記」)には、「鎌足は改新の成功を祈って、釈迦
三尊像・四天王像を造ることを発願した。事が成就し
た後、山階の地で造像を行った。やがて重病になり、
妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。これ
が山階寺の始まりである」と記されている。
 その所在地は大宅廃寺説や中臣遺跡説もあるが、山
科駅西南、御陵大津畑町を中心とした地域にあったと
する説が有力である。付近から有力な遺跡は見つかっ
ていないが、この辺りは大槻里と呼ばれ、西隣の陶田
里にかけてが陶原であったらしい。鎌足の子の不比等
が育った「山科の田辺史大隅らの家」も近くにあった。
 山科寺はその後、大和に移り厩坂寺と呼ばれ、更に
平城京に移り興福寺となる。このため興福寺は山階寺
とも呼ばれた。天智天皇の腹心であり、藤原氏の始祖
となる鎌足は、山階と深い関係があったのである。
調 査2008年3月28日
備 考解説パネルには山階寺(やましなでら),山階陶原寺(やましなのすえはらの家),陶田(すえた),田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ),厩坂寺(うまやさかでら)にルビが振られている

位置図
位置図

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