所在地 | 山科区御陵大津畑町 |
位置座標 | 北緯34度59分23.7秒/東経135度48分41.0秒(世界測地系) |
建立年 | 2008年 |
建立者 | おこしやす“やましな”協議会 |
寸 法 | 高105×幅18×奥行18cm |
碑 文 | |
| [南] |
| 山階寺跡(推定地) |
| [西] |
| 平成二十年三月建立 |
| おこしやす“やましな”協議会 |
| [碑側解説パネル] |
| 山階寺跡推定地 |
| 山階寺は七世紀後半、藤原鎌足により創建された寺 |
| 院。中大兄皇子(天智天皇)と共に大化改新を成し遂 |
| げた鎌足の「山階陶原家付属の持仏堂」が始まりと |
| 推定される。 |
| 奈良時代の興福寺に関する史料(『興福寺流記』所引 |
| 「宝字記」)には、「鎌足は改新の成功を祈って、釈迦 |
| 三尊像・四天王像を造ることを発願した。事が成就し |
| た後、山階の地で造像を行った。やがて重病になり、 |
| 妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。これ |
| が山階寺の始まりである」と記されている。 |
| その所在地は大宅廃寺説や中臣遺跡説もあるが、山 |
| 科駅西南、御陵大津畑町を中心とした地域にあったと |
| する説が有力である。付近から有力な遺跡は見つかっ |
| ていないが、この辺りは大槻里と呼ばれ、西隣の陶田 |
| 里にかけてが陶原であったらしい。鎌足の子の不比等 |
| が育った「山科の田辺史大隅らの家」も近くにあった。 |
| 山科寺はその後、大和に移り厩坂寺と呼ばれ、更に |
| 平城京に移り興福寺となる。このため興福寺は山階寺 |
| とも呼ばれた。天智天皇の腹心であり、藤原氏の始祖 |
| となる鎌足は、山階と深い関係があったのである。 |
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調 査 | 2008年3月28日 |
備 考 | 解説パネルには山階寺(やましなでら),山階陶原寺(やましなのすえはらの家),陶田(すえた),田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ),厩坂寺(うまやさかでら)にルビが振られている |