坂上田村麻呂碑 碑文の大意
 むかしから創業や中興の業績高い天皇は,自身が聰明なだけではなく,かならず有能な側近がいて,天皇の近くにあり事業を遂行し,また遠く辺境を守るものである。神武天皇には可美真手命(うましまでのみこと)と道臣(みちのおみ)が,天智天皇には藤原鎌足と阿部比羅夫がこれに相当する。
 桓武天皇が平安京に遷都したとき,和気清麻呂は三代の天皇に仕えた老臣として桓武天皇を助け,坂上田村麻呂は父苅田麻呂の蝦夷鎮圧を継承し,東国の防禦を確固たるものにした。これにより桓武天皇の偉業を今に至るまで目のあたりにすることができる。和気清麻呂は田村麻呂より先に亡くなり,坂上将軍は朝廷防衛の任務を負い,膽沢・志波二つの城を築き東国を開発し,その功績は顕著なものがあった。
 将軍が没した時,嵯峨天皇は哀悼のあまり一日政治を廃した。従二位を贈り,かつ山城国宇治郡栗栖の地に墓地を賜い,しかばねを棺の中に立たせ,平安京を向いて葬った。こののち,将軍たちは出陣の時にはこの墓に参詣し武運を祈った。坂上将軍が国家の重鎮たることのあらわれであったが,歳月を経て,今ではわずかに塚が残るだけである。
 明治28年4月に京都市が遷都千百年紀念祭を開催し,宇治郡民は将軍の偉業を懐しみ,記念のために墳墓を整備し参道を造り,参詣しやすくした。この事は宮内省の知る所となり,明治天皇から助成が寄せられた。宇治郡民は感激し,記念の石碑を建立し坂上将軍の偉業を後世に伝えようと考え,わたし(筆者京都府知事渡邊千秋)に碑文を依頼した。そこで郡民の考えに共鳴し執筆するものである。
 (銘文略)