御室川治水碑 碑文の大意
 京都の西郊では,双丘(ならびがおか)より南は田野が広がり,その中に村々が点在していた。御室川はその田野の中を流れ桂川に合流する川である。ふだんは水が少ないのだが,大雨になると濁流があふれ耕地をひたし,その損害は大きなものがあり,川普請の経費や労力は流域村民の悩みのたねだった。そこで京極村村長湯川半左衛門らは大規模な治水工事を企画し,流域の梅津・西院・吉祥院の三村もこれに賛同した。
 計画の認可を受け,明治33年11月に起工し,同38年1月に竣工した。この工事で川の流れは12間あまり短くなり,川幅は2間拡張した。川沿いの土地5890歩を供して堤防を作り,その延長は両岸おのおの1680間余で高さが1間6分,下部で厚さ3間,上部で2間にも及んだ。総工費は20,980円で,6割が京都府から支出され,4割が地元負担であった。
 治水工事の完成で永年の悩みが解決され,村民はこの業績を顕彰するために石碑を建てることを計画し,わたし(葛野郡長有吉三七)に碑文を依頼した。わたしは郡長としてこの工事に関係し,配下の者もよく力をつくして完成に至ったのである。すなわち村民の喜びはわたしの喜びでもある。このためあえて文を作った次第である。【銘略】