源為義塚移建碑

SI069

みなもとのためよしづかいけんのひ
石碑(0029382)石碑周辺(0029383)

 源為義(1096〜1156)は平安時代の武将。保元の乱で崇徳上皇方に味方したが敗れ,長男義朝のもとへ降伏し『保元物語』によれば「七条朱雀」で斬首された。
 「七条朱雀」すなわち千本七条附近(山城国葛野郡朱雀村)にあった塚と塔が為義の墓所であるという伝承を生み,江戸時代の地誌に記されることが多い。「源為義塔 按保元物語,源為義入道義法,於七条朱雀被斬首,則納円覚寺云々,今朱雀権現堂前竹林,塔之所存則古円覚寺之跡乎」(『雍州府志』巻十),「源為義の塚は権現堂の前[朱雀の六軒町といふ]民家の間にあり」(『都名所図会』巻四)などの記事がある。また『都名所図会』には18世紀中ごろの為義塚周辺を描いたさし絵を載せる。
 しかし明治末からの梅小路貨物ヤード整備にともない,権現寺とともに現在地に移転を余儀なくされた。旧地は現山陰線軌道敷内,七条通より少し北の地点であろう。移建の経緯を記したのがこの碑である。現在は塔(五輪塔)および江戸時代初期に建立されたとみられる碑,本碑,および石標六条判官源為義公塚(SI070)が権現寺門前の一区画に集められている。

所在地下京区朱雀裏畑町(権現寺前)
位置座標北緯34度59分19.6秒/東経135度44分23.2秒(世界測地系)
建立年1912年
建立者京都府
寸 法高197×幅90cm
碑   文
[北]
源為義旧址在葛野郡大内村大字朱雀
小字堂口二十二番地石塔在焉明治壬
子官有京都停車場擴張之事其塔入域
内因移此地以保存焉旧址在東偏八十
壱度三十四分相距実百三十八間六分
因建石以表之
   明治四十五年三月      京都府
調   査2014年4月22日
備   考上記解説中の「江戸時代初期に建立されたとみられる碑」は碑文が摩滅しほとんど読みがたい情況にあるので調査は他日を期す/寺田貞次『京都名家墳墓録』には左の碑のかろうじて読める部分を掲載しこの塚についても解説を加える

位置図
位置図

上へ

[HOME]