所在地 | 下京区西洞院通塩小路下る西側 |
位置座標 | 北緯34度59分13.0秒/東経135度45分18.5秒(世界測地系) |
建立年 | 2009年 |
建立者 | ハトヤ瑞鳳閣 |
寸 法 | 高110×幅18×奥行18cm |
碑 文 | |
| [東] |
| 此付近 新選組最後の洛中屋敷跡 |
| [南] |
| 旧山城国葛野郡不動堂村 |
| [北] |
| 旧平安京八条二坊十五町 |
| [西] |
| 二〇〇九年一〇月 ハトヤ瑞鳳閣建之 |
| [副碑東] |
| 当地は古代の表記でいえば、平安京左京八条二坊十五町にあたります。 |
| 中世には八条院町とよばれ、鋳物生産が多数行われた、いわば工業地帯でした。」 |
| が、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡不動堂村が成立しました。しかし豊臣期に構築」 |
| された、京都全体を囲い込む城壁・環濠「御土居堀」の郭内に位置していたため、「洛中」(都市)扱い」 |
| を受けました。 |
| 幕末期、新選組がこの地域に屋敷を営みました。池田屋事件や禁門の変などでの活躍や、局長」 |
| 近藤勇の政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)6月、将軍徳川慶喜の直属の軍隊となりました。」 |
| これにあわせての新屋敷建設です。いわば最盛期の邸宅といえます。近藤の甥で隊士だった宮川」 |
| 信吉の書簡によれば、同年6月15日に入居しています。位置については、同書翰に「七条通り下ル」、」 |
| 幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、当地付近に営まれたことは確実です。」 |
| が、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。価値の低い」 |
| 記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません。」 |
| 同年12月の王政復古政変により、新選組はわずか半年で当屋敷を離れます。翌年1月の鳥羽伏見」 |
| 戦争の敗北ののちは、関東へ下り、解体の道を歩みます。当屋敷は維持されずに早々に消失して、静かな農村に戻ったことでしょう。」 |
| が、明治になり、近くに七条停車場(現京都駅)が設置され、しばらくして地域一帯が京都市内に」 |
| 編入されます。当地付近は、地域史上はじめて京都屈指の「人の集まる場」となり、今に至ります。」 |
| 歴史地理史学者 中村武生 |
調 査 | 2009年12月31日 |
備 考 | 副碑碑文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト |