島原西門碑

SI037

しまばらにしもんひ
石碑(0008089)石碑周辺(0008094)

 島原は寛永17(1640)年六条柳町から移転した遊里。島原の入口は,当初は東の大門だけだったが,享保17(1732)年に西門が設けられ,天保13(1842)年,この地に大門が建てられた。近年まで島原の旧観を伝えていたが,昭和52(1977)と平成10(1998)年,2回の交通事故により西門は倒壊した。この石標は島原西門跡を示すものである。

所在地下京区西新屋敷下之町(島原住吉稲荷神社前)
位置座標北緯34度59分35.4秒/東経135度44分33.9秒(世界測地系)
建立年1998年
建立者島原地区自治協議会
寸 法高99×幅122×奥行18cm
碑 文
[南]
         島原西門碑
   島原は、寛永十八年(一六四一)、官命によってその前身の六条
三筋町の傾城町が、ここ朱雀野に移されたことに始まる。その移転
騒動が当時九州で勃発した島原の乱を思わせたところから、一般に
「島原」と呼ばれたが正式地名は、西新屋敷という。島原は江戸期
を通じて公許の花街(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してい
くが遊宴を事とするにとどまらず和歌俳諧等の文芸活動を盛ん
にし、ことに江戸中期には島原俳壇を形成するほどの活況を呈した
   島原の入口は当初東の大門のみであったが享保十七年(一七三二)
に西側中央部に西門が設けられた。それは両側に門柱を建てた
だけの簡略なものであったが天保十三年(一八四二)に現在地に移
され、構えも冠木門に切妻屋根、さらに控柱に小屋根を設ける
高麗門型となった。
   近年まで島原の西門として偉観を伝えていたが昭和五十二年
(一九七七)十一月輪禍によって全壊した。三年後に門柱のみが復元
されたが平成十年(一九九八)四月、再度の輪禍に見舞われ
てそれも倒壊した。
   よって、ここに碑を建立して、島原西門の由来と往時の形
容を刻するものである。
   平成十年十二月吉日                           島原地区自治協議会
         島原八景の内
                     西口菜花
                                 成章
         花の色は
            いひこそ知らね
                     咲きみちて
         山寺遠く
            匂ふ春風
   成章は富士谷氏   国学者   安永八年(一七七九)没   年四十二
調 査2002年2月26日
備 考

位置図
位置図

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