林又一郎顕彰碑

SA241

はやしまたいちろうけんしょうひ
石碑(0029116)石碑周辺(0029117)

 京都二条柳町遊郭創始者で遊女歌舞伎の興行主である林又一郎を,歌舞伎の祖として顕彰する碑。林又一郎はのちに大坂へ移り妓楼扇屋を開いた。その末裔が初代中村鴈治郎(1860〜1935)だという。鴈治郎の七回忌にあたり松竹株式会社会長白井松次郎により,又一郎が葬られたと伝える黒谷金戒光明寺にこの碑が建立された。碑陰に記す「二月一日」はすなわち鴈治郎の祥月命日である。又一郎の顕彰碑であると同時に初代鴈治郎の追善碑になっている。碑文は遊女歌舞伎興行主又一郎の行跡を明らかにした演劇研究家青々園伊原敏郎(1870〜1941)の手になる。

所在地左京区黒谷町(金戒光明寺内)
位置座標北緯35度01分08.1秒/東経135度47分17.7秒(世界測地系)
建立年1941年
建立者白井松次郎
寸 法高180×幅78cm×奥行17cm
碑 文
[南]
林又一郎顕彰碑【題額】
歌舞伎の鼻祖たる出雲於国の事は衆人悉くこれを記す同時に歌舞伎を経営し且つ」
各地に伝播せし林又一郎の事は世間稀にこれを知るのみ又一郎は足利末期の浪士」
なり天正十七年京都柳町に煙華の巷を開きまた四条河原に劇場を構へてその妓女」
をして歌舞伎を演ぜしむこの光景を描ける絵屏風を見るに前面の看板に六条中の」
町又一大かぶき太夫蔵人市十郎金作としるす蓋し又一は又一郎の略にして或は又」
市とも書けり慶長十五年名古屋築城の時林与次兵衛といふ者あり京都の女歌舞を」
率ゐて熱田に興行す与次兵衛は又一郎の別名かもしくは近親ならん当時肥後守加」
藤清正のために又一郎がその一座の女伶を熊本に下せる事あり尚ほその家に美妓」
吉野あり風流を以て聞こえ既に劇に脚色せらる又一郎は黒谷善教院に葬れりとい」
ふ所伝あれども今はその墳墓を見ず降つて寛文年中故ありて一家は大阪新町に移」
り家号を扇屋といふ口碑に曰く曽て又一郎が的標として射たる旭日扇を主君より」
恩賜せられこれより扇を家紋に用ひまた屋号となせりとこの扇屋は明治年間まで」
累世相嗣ぎ俳優中村鴈治郎は実にその末孫たり歌舞伎創始時代にての大功労者た」
りし家門より三百年を経て一代の名優を出せしは頗る因縁の浅からざるを思ふ茲」
に昭和十六年辛巳二月白井松次郎が鴈治郎の第七回忌追善を行ふと共に遠祖のた」
めに碑を建てゝその名を無窮に伝へんとす余鴈治郎と旧識あるを以て文を嘱せら」
る即ち旧記に拠りて大要を誌す(印)【印文「上善若水」】
                                                         文学博士伊原青々園撰
                                                         浪速御民菅楯彦書丹(印)【印文「菅原楯彦」】」
[北]
                                             石匠石六
                                                沢田岩雄
昭和十六年二月一日   白井松次郎建之
調 査2012年6月7日
備 考この碑の建立については国立劇場編『近代歌舞伎年表 京都篇』第10巻(2004年八木書店刊)の昭和16年1月条に記事があり1月27日に建碑式挙行と記す

位置図
位置図

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