復租紀恩碑 碑文の大意
 延元元(1336)年,足利尊氏が京都に侵攻し,後醍醐天皇は比叡山に難を避けた。この時八瀬の村民が道中を警護し無事延暦寺にたどりついた。天皇は村民の功をよろこび租税を免除した。以来五百年あまりこの特権は続いた。
 明治4年に税法が改められ,八瀬村も京都府の徴税を免れなくなった。右大臣岩倉具視公は村民の先祖の忠節を考え,このままにはできないと,明治天皇の手許金からいくばくかが下賜され,村民の共有財産として租税に充当するようにはからった。明治16年には元金と利子と合わせて二千円になっていた。
 村民は相談して,戸長長谷川半兵衛が代表して宮内省に請願した。その趣旨は,二千円と所有地の地券を宮内省に託し,その利子を租税に充当し長い間の租税免除の恩にむくいたい。また村民を輿丁に採用していただき,村民と皇室とのつながりを新たにしたい,以上である。関係者はこの請願を受け入れ天皇に奏上した。明治17年請願は許可され,八瀬村は毎年資金を下賜され租税を納入することができるようになった。
 この措置により後醍醐天皇のたまものを変わらずに生かすことができ,八瀬村民の忠節も示すことができた。岩倉右大臣の誠も継承でき,上下一致してみごとな結果を生んだことはすばらしいことである。
 先日八瀬村民は石碑を建立し皇室の恩沢の由来を伝えようと,わたし(筆者小笠原武英)は宮中の一員であるので,わたしに碑文を依頼した。そこで概略を記した次第である。