所在地 | 左京区下鴨半木町(京都府立植物園内) |
位置座標 | 北緯35度02分54.8秒/東経135度45分50.7秒(世界測地系) |
建立年 | 2010年 |
建立者 | 小野蘭山没後二百年記念事業会 |
寸 法 | 高(約)160×幅(約)170×奥行39cm |
碑 文 | |
| [南] |
| 小野蘭山顕頌碑【題額】 |
| 【蘭山肖像および『花彙』秋芍薬(キブネギク)の項の画像】 |
| 江戸時代中期の本草・博物学者小野蘭山は享保十四年(一七二九)塔之段」 |
| 桜木町(京都市上京区)に生まれる。姓は佐伯、諱は職博、字は以文、通称喜内。」 |
| 父は主殿大丞兼伊勢守職茂。十三歳で松岡恕庵に入門して本草を学ぶ。 |
| 二十五歳のとき身体虚弱のため仕官の道をあきらめて塾を開いた。 |
| 衆芳軒という。はじめ夷川通河原町上ルにあったが、火災などのため |
| 四度移転して間之町丸太町下ル(大津町西側)に移った。柴門に鳴子を垂らし、」 |
| 庭に珍草異木を植えた。平生は読書や講義をして「日新之業」(学問の進歩に」 |
| 尽くすこと)を説き、「耳目の過るところ終身忘れず」という博覧強記でも |
| 知られた。春秋には塾生らと京の山野に採薬して実地指導した。 |
| 京都での教育研究は四十六年に及んだ。寛政十一年(一七九九)幕府の |
| 命をうけて江戸に下り、幕府医学館で教授した。その間、諸国に採薬 |
| すること六回。講義録『本草綱目啓蒙』(一八〇三〜〇六)を出版してその |
| 学問を大成させた。 |
| 島田充房との共著『花彙』(一七五九〜六五)は斬新な植物図譜として |
| 海外にも紹介され高い評価を受けた。シーボルトから日本のリンネとも |
| 称えられた。 |
| 蘭山の門人は全国にわたって千人に達した。その学統から木村蒹葭堂、 |
| 岩崎灌園、水谷豊文、山本亡羊、飯沼慾斎、宇田川榕庵、伊藤圭介らが |
| 輩出し、日本の博物研究を大きく発展させた。 |
| 蘭山は日本の自然誌研究の創始者であり、京都の地はその学問の原点であった。墓誌にも「京師之野爰毓偉人」(京都の民が偉人を育てた)とある。 |
| 文化七年(一八一〇)一月二十七日、江戸において死去、享年八十二。 |
| 平成二十二年(二〇一〇)十一月吉日 |
| 小野蘭山没後二百年記念事業会 |
| [北] |
| 小野蘭山顕彰碑典拠の記 |
| 題字 本草項目 李時珍著 初版(金陵本) |
| 京都府立植物園大森文庫所蔵より集字 |
| 肖像 蘭山翁画像 谷文晁画 |
| 国立国会図書館所蔵 |
| キブネギク図 花彙 小野蘭山・島田充房著 |
| 第三高等学校旧蔵本 |
| 京都大学総合人間学部図書館所蔵 |
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| 平成二十二年(二〇一〇)十一月吉日 |
| 小野蘭山没後二百年記念事業会 |
調 査 | 2010年11月28日 |
備 考 | 碑文は南面北面いずれも陶板に記され石碑本体に埋め込まれている/南面碑文中固有名詞等に附けられたふりかなの一覧はここ |