レオン・ジュリー碑

SA232

れおん・じゅりーのひ
石碑(0028010)石碑周辺(0028011)

 レオン・ジュリー(Léon Dury,1822-91)はフランスの医師で,幕末に来日し,長崎で語学教師をつとめた。明治5年から同8年まで京都府に招かれ仏学校のフランス語教師を努め,その間西陣物産会社織工のフランス派遣に尽力した。京都府退職後は東京で教鞭をとったが,明治10年に帰国した。帰国時に京都府から委託され,稲畑勝太郎(1862~1940)ら8名の留学生をフランスへ引率し,留学中の監督の任にあたった。
 この碑はジュリーの日本での功績を讃えるもので,明治32年,薫陶を受けた実業家稲畑勝太郎らにより南禅寺境内に建てられたが,のち現在地である関西日仏学館内に移された。関西日仏学館は稲畑らの尽力により昭和2年に山科区に建設され,同11年に現在地へ新築移転した。同館にジュリーの碑が移築され,また同碑の東に稲畑の半身銅像が立つのはこのためである。

所在地左京区吉田泉殿町(関西日仏学館内)
位置座標北緯35度01分33.6秒/東経135度46分41.3秒(世界測地系)
建立年1899年
建立者(有志)
寸 法高350×幅140×奥行45cm
碑 文
[北]
A LA MEMOIRE DE M   LEON DURY【題額】
仏人列翁就理氏遺愛碑
明治二十四年十月二十四日列翁就理氏病歿於仏国馬耳塞享年七十二実西暦紀元一千八百九十一年也君仏国布州旧羅努県蘭別古村人」
家業車匠君幼志学及長脩医馬耳塞得学士位一千八百五十四年虎列剌病大行於仏国死者以万数君奉官命医療冒危不避多所救治伊太利」
国領事某罹疾危篤君一剤回生名声大著伊帝授王冠金章仏帝那破崙三世亦贈紀念章賞之古利滅戦起総督別理西掖挙君為牙営医官従軍」
三年治療懇到*凱旋以功叙名誉団勲章第五等文久元年幕府将設医院於函館因仏公使羅休求医於其国君中選来我而前議不果行君因任」
長崎在留仏国領事慶応二年幕府差遣徳川昭武於仏国昭武将軍慶喜弟適君帰国幕府託以処理諸事與倶航海明年君復来我明治中興官置」
学校於長崎講習外国語曰広運館嘱君以官暇教授無何仏国廃長崎領事館命転任亜非利加君辞不赴任四年京都府設仏学校聘為教授君誘」
掖後進懇惻切至寛猛並用厳整其起居活溌其動止飲食出入未嘗不與之倶是以請従游者相踵遷東京開成学校教授兼外国語学校教授生員」
従而東者数十人十年辞職帰国君之在京都愛其風色暇則俯仰游詠於山紫水明之間撫古視今深有所感以為   皇邦技芸之秀出其固有然有」
所未尽者宜長短取捨大成其美以図益於国家因勧知事派留学生於仏国知事納之及君帰国選俊秀十餘人與赴仏国講究染織陶器製絲諸科」
委君以監之君択師就学随業所適愛護訓督莫不備至皆成業而帰邦人聞之往往託監督子弟留学者十八年   朝廷賞其功叙勲四等賜旭日章」
二十一年挙為馬耳塞港日本名誉領事君既帰国不能忘懐於   皇邦風土毎語及東洋事輒曰日本山水絶佳而人民富於愛国之情其於文化欧」
米諸邦之外別開局面不信吾言者一游其地以審察之可矣先歿三日謂家人曰宜致吾於馬耳塞領事館軍人以死於戦為栄領事亦当死於其職」
家人止之不聴遂従其言君為人敦厚謹粛粋然有君子之風真率不飾喜與児童嬉戯##善話用心教育主智徳不可偏廃之説尚実学斥空理慈」
和有恩急人艱難以勤倹自率常謂仏之敗於独者原乎奢侈共和之政合於理而背於実欽慕我      皇統連綿万世一系極口称揚之以仏国廃帝」
政行共和為憾寓我尤久其闡学術開風化賛翼補導與有力焉於是邦人嘗蒙君恵者胥謀建碑西京南禅寺内以図不朽謁予文予児学於仏国亦」
受君訓督於公義私情不容辞也乃作銘曰
彼美人兮西方之人兮其徳不&遺愛永存京師之野爰樹貞珉山紫水明杖屡攸盤桓公私頼恵師父兼恩西方美人終不可$兮」
      明治三十年十月            正四位勲四等文学博士重野安繹撰
                                       梨本宮家令従六位勲五等西尾為忠書
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調 査2009年1月8日
備 考碑文には明治30年と記すが,高梨光司編『稲畑勝太郎君伝』(1938年 稲畑勝太郎翁喜寿記念伝記刊行会刊)には明治32年建立と記す/データ中建立年は同書に従う


碑文中「*」字
碑文中「#」字
碑文中「$」字

位置図
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