高野河原開墾来歴碑 碑文の大意
 山城国愛宕郡高野川の東岸一帯を高野河原という。昔は流れが速く,荒れた河原が広がり,水かさが増えると人馬は渡ることができなかった。寛文年中(1661〜73)大坂の商人豊後屋又兵衛という人がこの地を過ぎ,開拓の志を起こした。時に後水尾上皇が修学院離宮への御幸道路を造らせようとした。又兵衛は私財を投じて道路建設を出願し許された。又兵衛はその子や同志の者と協力し,寛文11(1671)年5月に起工,同年9月に竣功した。この褒賞として道路の左右の荒地を与えられ,喜んで荒地の開拓に従事し,りっぱに完成させた。当時の功労者では又兵衛(姓は武野)の家だけが連綿として村に住み続けている。村人は村の始まりを石に刻んで残そうと発起し,ここに石碑を建てる次第である。