岩倉具視公避匿所SA147 |
いわくらともみこうひとくのところ |
文久2(1862)年10月,岩倉具視(1825〜83)は岩倉村に隠棲した。この間,公武合体派として和宮降嫁に周旋してきた岩倉は尊王攘夷派から命をねらわれ,花園村の九兵衛宅に身を寄せるなどして難を逃れていた。岩倉は,実相院の裏山であるこの地に難を逃れたことがあったといい,この石標はその地を示している。この後,文久3年8月18日の政変で尊王攘夷派が京都から追放され,岩倉の命をねらう動きはなくなっていく。 |
所在地 | 左京区岩倉上蔵町 |
位置座標 | 北緯35度04分40.8秒/東経135度46分33.8秒(世界測地系) |
建立年 | 1932年 |
建立者 | 岩倉公旧蹟保存会 |
寸 法 | 高170×幅31×奥行24cm |
碑 文 | |
[東] | |
岩倉具視公避匿之所 | |
侯爵大久保利武書 | |
[南] | |
昭和七年五月建之 | |
財団 | |
岩倉公旧蹟保存会 | |
法人 | |
[西] | |
文久二年岩倉公朝譴ヲ豪リ岩倉村ニ屏居ス時ニ激徒去来シ | |
テ之ヲ窺スコト頻ナリ百害ヲ加ヘントスル急ナルニ会ス | |
公乃チ此ニ避匿スルコト数日以テ免ルト云フ今茲公ノ五十 | |
年祭ヲ行フニ方リ石ヲ樹テ以テ表ス | |
調 査 | 2003年11月14日 |
備 考 |
位置図 | |