俊寛僧都鹿谷山荘跡碑 碑文の大意
 昔から心ある人は権力者が暴虐のかぎりを尽くすことに憤りを持ち,こいつらを一掃して人民を安心させようと計画したものであった。その事が成功すれば「義挙」と讃えられた。しかし失敗すれば「乱賊」とののしられたのである。だから世に伝える歴史というものはあてにならない。
 平清盛は権力をほしいままにして,天皇さえ自分の好き勝手に即位させ,気に入らない者は退位させた。俊寛は村上天皇の末裔で,清盛のやることを憎んでいたので,成親等の計画を聞き,いざという時には奈良興福寺の僧兵を率いて味方するという密約を結び,自分の山荘で仲間と計画を練った。ところが,蹶起直前に行綱が清盛に密告し,俊寛は同志とともに硫黄島(鬼界島)に流された。ほかの者は罪をゆるされて都に帰ることができたのに,俊寛はひとり島に残され非業の死を遂げた。清盛がいかに俊寛の知略を憎んだかがわかるだろう。
 俊寛は僧侶である。僧侶の身でありながら謀議に加わったのは,平氏の横暴を見るに見かねて立ち上がったのだが,つまらぬ裏切り者のせいで謀反の罪を着せられたわけである。俊寛の志は歴史の書物にも無視され続け,山荘の跡は草に覆われ獣の跳梁する地になってしまった。悲しいことである。
 西垣精之助さんは気骨のある人で,世の中に正義を訴えることを常に思っていた。ある夜,夢の中で俊寛の山荘を訪れた。目がさめて夢の光景を求め,この地に来たところ,まわりのようすは夢と寸分も相違がなかった。不思議に思い,歴史書を読みあさり,はじめて俊寛が義憤から清盛に逆らったことを知った。そこで俊寛を顕彰しその魂魄を慰めるために石碑を建立したいと思い,二千歩あまりの土地を購入した。一条実孝公はその志に感じ「俊寛僧都忠誠碑」の七文字をお書きになった。また,わたし(筆者長尾甲)に碑文を書くように言われた。もしもこの碑が俊寛の冤罪をそそぎ,世のためになるようなことがあれば,それはすなわち西垣さんの意図したことなのである。