水飲対陣跡SA027 |
みずのみたいじんのあと |
千種忠顕(?〜1336)は,後醍醐天皇(1288〜1339)の信任厚く,建武政権では従三位参議,三カ国の国司に補任された。足利尊氏(1305〜58)の攻略により政権が瓦解すると,忠顕は足利直義(1306〜52)軍と比叡山麓西坂本水飲で戦った。この石標は延元元(1336)年6月7日,千種忠顕が戦死した地を示すものである。 |
所在地 | 左京区修学院音羽谷 |
位置座標 | 北緯35度03分19.5秒/東経135度48分47.5秒(世界測地系) |
建立年 | 1921年 |
建立者 | |
寸 法 | 高147×幅53×奥行37cm |
碑 文 | |
[北] | |
水飲対陣之跡 | |
延元元年ノ乱中将忠顕卿官軍ノ将 | |
トシテ四明嶽ヲ防キ給フ賊西坂ノ | |
三方ヨリ攻寄セタリ官軍水飲ノ地 | |
ニ攻下シ対陣ス翌賊大軍後方ヨリ | |
襲フ衆寡敵セズ卿水飲ノ地ニ戦死 | |
シ給フヨシ太平記ニ見ユ | |
大正十年夏日 掃雲千種顕男誌 | |
調 査 | 2002年2月12日 |
備 考 |
位置図 | |