此奥俊寛山荘地SA024 |
このおくしゅんかんさんそうち |
後白河上皇(1127〜92)側近の僧である法勝寺執行俊寛(生没年未詳)は,治承元(1177)年6月,自らの山荘で平氏打倒の密議を行い,その首謀として薩摩国鬼界島(現鹿児島県硫黄島)に流された。この石標は,世にいう鹿ヶ谷の謀議が行われた山荘跡地を示すものである。 |
所在地 | 左京区鹿ヶ谷桜谷町(霊鑑寺南) |
位置座標 | 北緯35度01分13.0秒/東経135度47分43.9秒(世界測地系) |
建立年 | 1939年 |
建立者 | 京都市教育会 |
寸 法 | 高119×幅18×奥行18cm |
碑 文 | |
[西] | |
此奥俊寛山荘地 | |
[北] | |
昭和十四年三月建之 京都市教育会 | |
調 査 | 2002年2月21日 |
備 考 |
位置図 | |