中路亨表彰碑 碑文の大意
 中路先生は通称義右衛門。天保壬辰(3年),葛野郡桂村に生れた。家は代々農家であった。先生は幼い頃から学問を好み,成長して石津灌園に入門した。いろいろな書物に親しみ,文章が得意であった。学問だけではなく,およそ習いごとはことごとく習得した。いつも世の乱れを歎き,村里の純朴な風俗を守ることを考えていた。安政4年,私財を投じて私塾を始め,村人に余暇を利用して勉強することを懇切に勧めた。(その教育は)和漢の書物を教えることはもとより,生花・お茶・謡曲にまで及んだ。勤勉に教えることが15年続き,村の若者には学問の気がみなぎった。
 明治5年,学制が発布され,各村では競って村立の学校を建設した。このとき,川岡村民は先生を第一に推薦し川岡校の校長に就任してもらった。5年間奮闘し教育の実が大いにあがった。明治九年,病気のため辞職した。翌明治10年春,こんどは物集女校に招聘された。村民は先生を慕うあまり,住宅を建てて先生を招き,子供たちの夜学の便宜を計る次第であった。ここには5年間勤務し職を辞した。以来家に居ながらも,なお地域の教育についていろいろと努力を惜しまなかった。明治23年9月3日,病気により死去,享年60。
 先生の性格は温厚篤実で,熱心にしかもおだやかに物ごとを行い人に接した。村人たちを指導すること前後25年であったが,終始変らぬ態度であった。先生が亡くなって30年もたつというのに,その影響が今もありありと残っているのは当然ではないか。以前,葛野郡では追悼式を挙行したが,いま門人や知人は先生のことが忘れられず,石碑を桂橋のたもとに建てようと,わたし(京都府立第三中学校長中野省吾)に碑文を依頼した。わたしは先生と面識はなかったが,先生の徳と村人の義を聞き,尊敬せずにはいられない。文章が下手などと辞退してはいられない。そこで伝記に依拠して以上のようなことを書き連ねた次第である。【以下銘は略す】