京都第五中学校記念碑

NI014

きょうとだいごちゅうがっこうきねんひ
石碑(0010178)石碑周辺(0010183)

 京都第五中学校は,昭和16(1941)年4月に新入生260名を迎え,京都府立第二中学校(西九条)内に開校した。翌17年新校舎地が右京区(現在西京区)上桂森上町のこの地に決定し,同年10月新校舎に移転した。戦後の昭和22(1947)年新学制による小学校と中学校の義務教育制度ができ,京都市では独立した中学校を11校設け,その他は小学校と旧制中学校に併設する措置をとった。そのため京都第五中学には上桂中学(のち桂中学)が併設された。翌昭和23(1948)新制高等学校がスタートして第五中学の生徒は右京区花園馬代町の京都第三中学校に移転し,同時に京都府立桂高等学校が開校した。しかし,同年10月に閉校となった。この石標は京都第五中学校の跡地を示すものである。

所在地西京区上桂森上町(桂中学校内)
位置座標北緯34度59分19.4秒/東経135度41分41.5秒(世界測地系)
建立年2002年
建立者京五中同窓会
寸 法(正碑)高230×幅90×奥行60cm/(副碑)高38×幅70×奥行25cm
碑 文
[正碑西]
(校章)
[正碑東]
(「花」の草体)
[副碑西]
         京都府立京都第五中学校   略史
   京都府立京都第五中学校は昭和十六年に創立、第一期生を迎え
た。翌年夏、一・二年生のための校舎がこの地に完成、他校に教
室を間借りしていた生徒達が帰集した。
   時は第二次世界大戦のさ中、資材・人手ともに不足し、講堂は
未完成、履物室などの付属建築物は平土間を板で囲っただけの仮
設小屋だった。草の生い茂る荒地を生徒らは自ら切り株や石塊を
除き、排水のために桂川から下地用の小石を運んで覆土整地し、
使用に堪える運動場に仕上げた。
   それも束の間、やがて生徒達は、働き手を軍隊あるいは軍需工
場に駆り出されて手薄になった農家の手助けに赴くことになる。
時を同じくして、多くの生徒が陸軍幼年学校や海軍飛行予科練習
生など、軍隊に志願し、戦禍による数名の犠牲者を出すにいたっ
た。昭和十九年、三・四年生は航空機の部品製造工場に動員され、
学校に残った一・二年生も勉学の傍ら、農作業に駆り出された。
   昭和二十年四月、動員先の工場が爆撃を受けた為、校舎は床を
剥がされ、旋盤やボール盤などの機械が据えられて臨時工場に変
わってしまった。これにより生じた教室の不足を補うべく粗造の
小屋が建てられ、学舎に充てられた。京五中は工場動員のさ中も、
勤務の三交代制などを工夫、戦争中一度も授業を放棄したことは
なかった。
   こうして八月十五日の終戦を迎え、戦後の学制改革により、
京五中は昭和二十三年、上桂の地から姿を消すことになる。
   激動の時代を駆け抜けた京五中の歴史の断片を後世に伝えるた
め、記念碑の建立が意義あるものとなることを心から願っている。
      平成十四年(二〇〇二年)八月吉日
                  京五中同窓会   建立
調 査2002年10月8日
備 考

位置図
位置図

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