所在地 | 中京区木屋町通三条上る西入(姉小路橋西詰) |
位置座標 | 北緯35度00分34.7秒/東経135度46分13.4秒(世界測地系) |
建立年 | 2016年 |
建立者 | 特定非営利活動法人京都歴史地理同考会 |
寸 法 | 高106×幅18×奥行18cm |
碑 文 | |
| [西] |
| これよりにし |
| 従 是 西 徳川時代対馬宗氏屋敷跡 |
| [南] |
| つけたり |
| 附 桂小五郎寓居跡 |
| [東] |
| つけたり |
| 附 桂小五郎寓居跡 |
| [北] |
| 二〇一六年十二月 |
| 特定非営利活動法人 京都歴史地理同考会建之 |
| 寄贈者 京都市 三木俊和 |
| [解説板] |
| 徳川時代 対馬宗氏 屋敷跡 附 桂小五郎 寓居跡 |
| 当地はながく鴨川の西河原でした。平安時代の一一世紀 |
| はじめには、三条京極(現三条通寺町)の北東にあたるこの |
| 付近には、貧しく孤独な人々を助ける悲田院が存在した |
| と考えられます(「左経記」寛仁元年七月二日条、 |
| 一〇一七年)。河原とはいえ、すでに居住区域でした。 |
| 鎌倉時代の弘安七年閏四月一六日(一二八四年),時宗の |
| 開祖である一遍が上洛しました。そのおり「三条悲田院」 |
| の蓮光院に滞在しました(「一遍上人絵伝」)。 |
| 南北朝時代になると、この地の権利をめぐって悲田院が |
| 洛東の法勝寺と争っていたことが知られます(応安元年 |
| 〈正平二三、一三六八〉、柳原家記録)。 |
| 徳川時代に入り、寛永一九年(一六四二)ごろまでには |
| 地域一帯が市街化したとみられます。当初はのち京都代官 |
| (徳川家上方役人、家禄二十人扶持)となる嵯峨角倉氏の |
| 初代当主、角倉平次(厳昭、角倉了以の孫)の屋敷地でした |
| (「寛永後万治前洛中絵図」)。 |
| その後、対馬国(現長崎県)の大名宗氏がここに邸宅を |
| 営みます。宗氏は徳川時代日本において朝鮮と通交した |
| 唯一の大名です。 |
| 朝鮮国の使者〈朝鮮通信使〉は徳川将軍の代替わりごとに |
| 来日し、京都をへて江戸へ向かいます。宗氏はその受け入れ |
| と護行を担いました。 |
| 宗氏の京屋敷は、もと堀川中立売下ルにありましたが、 |
| 貞享二年(一六八五)から同四年の間にこの地へ、移転しました。 |
| 当地は白糸、絹織物など、日本屈指の対朝鮮貿易の集荷地点 |
| と位置づけられます。この地が選ばれたのは、高瀬川に接する |
| 水上輸送の要地であったためでしょう。 |
| この付近は南北に連なる大名屋敷の所在地で、北には |
| 長州萩毛利氏、加賀金沢前田氏、南には近江彦根井伊氏、 |
| 土佐高知山内氏などが並んでいました。 |
| 幕末期、対馬宗氏は長州毛利氏の縁戚でしたので、その政治 |
| 活動の重要な協力者となりました。その家臣であった大島友之允 |
| (映画監督の故大島渚の曾祖父)は、毛利家臣の桂小五郎 |
| (のち木戸孝允)と親しく、そのためか桂は対馬屋敷を居所の |
| ひとつとしました。 |
| 元治元年六月五日(一八六四年七月八日)、京都守護職会津侯 |
| 松平容保所属の新選組による池田屋襲撃のおり、桂は屋根を |
| つたって脱出し、対馬屋敷に難を逃れました(「乃美織江手記」)。 |
| 二〇一六年一二月 |
| 特定非営利活動法人京都歴史地理同考会 理事長 中村武生 |
調 査 | 2022年3月24日 |
備 考 | 解説板は碑の北隣に設けられ、縦書き(二段)・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト/解説板には、桂小五郎・大島友之允の肖像写真と、対馬京都屋敷絵図(長崎県立対馬歴史民俗資料館所蔵)が収められている |