対馬宗氏屋敷跡・桂小五郎寓居跡

NA177

つしまそうしやしきあと・かつらこごろうぐうきょあと
石碑石碑周辺

 (解説は碑に添えられた解説板にゆずる)

所在地中京区木屋町通三条上る西入(姉小路橋西詰)
位置座標北緯35度00分34.7秒/東経135度46分13.4秒(世界測地系)
建立年2016年
建立者特定非営利活動法人京都歴史地理同考会
寸 法高106×幅18×奥行18cm
碑   文
[西]
これよりにし
  従  是  西    徳川時代対馬宗氏屋敷跡
[南]
つけたり
    附     桂小五郎寓居跡
[東]
つけたり
    附     桂小五郎寓居跡
[北]
二〇一六年十二月
   特定非営利活動法人   京都歴史地理同考会建之
                                寄贈者   京都市   三木俊和
[解説板]
      徳川時代  対馬宗氏  屋敷跡   附   桂小五郎  寓居跡
   当地はながく鴨川の西河原でした。平安時代の一一世紀
はじめには、三条京極(現三条通寺町)の北東にあたるこの
付近には、貧しく孤独な人々を助ける悲田院が存在した
と考えられます(「左経記」寛仁元年七月二日条、
一〇一七年)。河原とはいえ、すでに居住区域でした。
   鎌倉時代の弘安七年閏四月一六日(一二八四年),時宗の
開祖である一遍が上洛しました。そのおり「三条悲田院」
の蓮光院に滞在しました(「一遍上人絵伝」)。
   南北朝時代になると、この地の権利をめぐって悲田院が
洛東の法勝寺と争っていたことが知られます(応安元年
〈正平二三、一三六八〉、柳原家記録)。
   徳川時代に入り、寛永一九年(一六四二)ごろまでには
地域一帯が市街化したとみられます。当初はのち京都代官
(徳川家上方役人、家禄二十人扶持)となる嵯峨角倉氏の
初代当主、角倉平次(厳昭、角倉了以の孫)の屋敷地でした
(「寛永後万治前洛中絵図」)。
   その後、対馬国(現長崎県)の大名宗氏がここに邸宅を
営みます。宗氏は徳川時代日本において朝鮮と通交した
唯一の大名です。
   朝鮮国の使者〈朝鮮通信使〉は徳川将軍の代替わりごとに
来日し、京都をへて江戸へ向かいます。宗氏はその受け入れ
と護行を担いました。
   宗氏の京屋敷は、もと堀川中立売下ルにありましたが、
貞享二年(一六八五)から同四年の間にこの地へ、移転しました。
当地は白糸、絹織物など、日本屈指の対朝鮮貿易の集荷地点
と位置づけられます。この地が選ばれたのは、高瀬川に接する
水上輸送の要地であったためでしょう。
   この付近は南北に連なる大名屋敷の所在地で、北には
長州萩毛利氏、加賀金沢前田氏、南には近江彦根井伊氏、
土佐高知山内氏などが並んでいました。
   幕末期、対馬宗氏は長州毛利氏の縁戚でしたので、その政治
活動の重要な協力者となりました。その家臣であった大島友之允
(映画監督の故大島渚の曾祖父)は、毛利家臣の桂小五郎
(のち木戸孝允)と親しく、そのためか桂は対馬屋敷を居所の
ひとつとしました。
   元治元年六月五日(一八六四年七月八日)、京都守護職会津侯
松平容保所属の新選組による池田屋襲撃のおり、桂は屋根を
つたって脱出し、対馬屋敷に難を逃れました(「乃美織江手記」)。
         二〇一六年一二月
      特定非営利活動法人京都歴史地理同考会   理事長   中村武生
調 査2022年3月24日
備 考解説板は碑の北隣に設けられ、縦書き(二段)・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト/解説板には、桂小五郎・大島友之允の肖像写真と、対馬京都屋敷絵図(長崎県立対馬歴史民俗資料館所蔵)が収められている

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