山本覚馬・八重邸宅跡NA174 |
やまもとかくま やえ ていたくあと |
会津藩士であった山本覚馬(1828〜92)は,京都守護職となった藩主松平容保にしたがって上洛し,京都に住んでいた。鳥羽・伏見の戦いにより入牢したが,小松帯刀に見いだされ,京都府勧業掛として,京都府権大参事(後に知事)槇村正直による近代化策を推進した。覚馬は,明治8年(1875)にはこの地に住んでいたことを確認できる。この地には,覚馬の妹である八重(1845〜1932)も同居しており,八重は新島襄の妻となった。 この石碑は,この地が山本覚馬・八重きょうだいの住まいだったこと,この地を御土居が通っていたことなどを示している。 |
所在地 | 中京区河原町通御池南西角 |
位置座標 | 北緯35度0分38秒/東経135度46分8秒(世界測地系) |
建立年 | 2013年 |
建立者 | 京都歴史地理同考会 |
寸 法 | 高114.0×幅18.2×奥行18.2cm |
碑 文 | |
[北東] | |
北隣地 明治時代 山本覚馬・八重邸宅跡 | |
[南東] | |
そうがまえ | |
洛中惣構 土塁(御土居)跡 | |
[南西] | |
二〇一三年一一月 | |
特定非営利活動法人京都歴史地理同考会建之 | |
故堀茂菩提のため妻登志美寄附す | |
[北西] | |
此附近 池田屋事件 吉田稔麿殉節之地 | |
調 査 | 2020年12月15日 |
備 考 | 石碑の横には,詳細な解説板がある。 |