所在地 | 中京区木屋町通六角下る東側(高瀬川山崎橋東詰下る) |
位置座標 | 北緯35度00分26.4秒/東経135度46分12.9秒(世界測地系) |
建立年 | 2009年 |
建立者 | NPO法人京都龍馬会 |
寸 法 | 高112×幅18×奥行18cm |
碑 文 | |
| [西] |
| 坂本龍馬妻 |
| 此付近 お龍 独身時代 寓居跡 |
| [北] |
| 京都府知事 |
| 此付近 中井弘 幕末期 寓居跡 |
| [南] |
| 二〇〇九年三月 |
| 特定非営利活動法人 京都龍馬会 建之 |
| [壁面パネル] |
| 坂本龍馬の妻となるお龍(鞆)は、青蓮院宮に仕える医師楢崎将作・貞の |
| 長女でした。京都柳馬場三条下ル東側に住んでいましたが、文久2年 |
| (1862)6月20日、不幸がおきます。父の死去です。このため母・妹・弟を |
| ふくむ6人の遺族は困窮し、「京都の木屋町」もしくは「四条、うら通りの |
| 借家」に移住します。 |
| こののち一家は離散し、お龍(鞆)は単身七条新地の扇岩なる店に入り |
| ます。母と妹君江は、洛東大仏南門前(現東山区本瓦町付近)の河原屋五 |
| 兵衛(五郎兵衛)隠居所の土佐亡命志士の居所に住み込みで働きました。そ |
| の縁で龍馬とお龍(鞆)は出会うことになります。木屋町の住居は、その |
| 直前まで住んでいた地として無視できません。 |
| というのも、龍馬の書翰に記載されたお龍(鞆)の個性を知るエピソード |
| に、妹光枝が悪い輩にだまされて大坂の遊郭に連れて行かれたが、彼女が |
| 単身乗り込み、ついに連れ戻すというものがあります。それが木屋町時代の |
| ことです。正確な位置は不明ですが、龍馬が「まことにおもしろき女」と |
| 愛したお龍(鞆)のゆかりの地として、ここ木屋町通に建碑するものです。 |
| なお龍馬やその終焉地の主人近江屋新助とも交流のあった、滋賀県知事 |
| や京都府知事を歴任する中井弘も、中井弘蔵や田中幸助と名乗った幕末 |
| 当時、木屋町の近江屋喜一郎の2階に寄宿していました。あわせて顕彰し |
| ます。 |
| 歴史地理研究者 中村武生 |
調 査 | 2009年4月1日 |
備 考 | 碑のうしろの壁面に金属製解説パネルが設置されている/パネルの文章は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト |