山崎闇斎祠堂碑 碑文の大意
 庶民に生まれ,大名や公家を教化し,日本の学問を一変し天下の道徳を正道に戻すなどということができる人はめったにいるものではない。山崎闇斎先生はそういう希に見る学者である。先生は日本の神道と中国の聖人の道を融合させて一世を風靡した。門弟は六千人にのぼるといい,大納言正親町公通や会津藩主保科正之も先生に師事した。先生の学説は,日本の国体を尊重し身分秩序を正すものであった。
 先生の門流からは尊王思想の持ち主が輩出し,竹内式部,唐崎常陸介,梅田雲浜などの尊王思想家はみな先生の学問を継承した者である。そしてついには明治維新をもたらした。
 先生は神道の奥義を大中臣精長と吉川惟足から受け,垂加霊社の称号を授けられた。そこで葭屋町の自宅内に神社を建立したが,延宝2(1674)年に下御霊神社に移した。先生はあとつぎがなかったので,没後は門人の下御霊神社神主出雲路信直が遺物を管理しその霊を祀っていた。
 明治40(1907)年,先生に正四位が追贈された。これは尊王の志に対するものである。そこで出雲路信直の八世の子孫敬通が有志と祭典を催し,かつ黒谷金戒光明寺の墓所を整備した。敬通はじめ有志は以上の経緯を石碑に刻みたいと欲し,谷子爵が仲介しわたし(筆者内田周平)に碑文を依頼した。わたしは先生にひさしく私淑していたので,願ってもないことである。よって先生の学問の梗概と垂加社の沿革を記し後世に残すものである。