烏丸御池遺跡・平安京跡

NA131

からすまおいけいせき・へいあんきょうあと
石碑石碑周辺

 烏丸御池遺跡は,烏丸御池附近を中心とした,南北約600メートル・東西約800メートルという広い範囲にわたって,縄文時代晩期から古墳時代にいとなまれた集落の跡。発掘調査によって弥生時代の住居跡や古墳時代の遺物などが見つかっている。ここから約700メートル北に広がる烏丸丸太町遺跡とともに,平安遷都以前からいとなまれていた集落遺跡として知られている。
 平安京は,桓武天皇が延暦13(794)年に長岡京から遷都したもので,跡地は現在の京都市街地に重なっており,中京区壬生附近を中心とした,南北約5.2キロメートル・東西約4.5キロメートルの広さにわたっている。そして現在の御池通は,平安京の二条大路と三条大路の間を通っていた三条坊門小路にほぼ相当する。
 この石標は,この附近が烏丸御池遺跡であり,平安京の三条坊門小路が通っていた地でもあることを示している。

所在地中京区烏丸通御池東北角
位置座標北緯35度00分39.3秒/東経135度45分36.0秒(世界測地系)
建立年2000年
建立者京都市
寸 法高101×幅105×奥行15cm
碑 文
[西]
烏丸御池遺跡・平安京跡
Karasuma Oike site / Heiankyo site
 この交差点付近は、縄文晩期〜古墳時代の土器が多数出土することから、有史以前より集落が営まれていたことが推定され、地名をとって烏丸御池遺跡と呼んでいる。
 この碑が建つ地点は、平安京では左京三条三坊十四町と十五町の間の三条坊門小路にあたり、付近は当時の一等地であった。中でも交差点北西角の地には、後鳥羽上皇の押小路殿に始まる著名な園地があり、そのため三条坊門泉殿などの別名で呼ばれていた。今、ここを東西に走る御池通は、神泉苑の前を通ることに因むというのが通説だが、『坊目誌』ではこの泉殿の園地に由来するという説が掲げられている。
 その後も付近は高級住宅街として、足利一門の邸宅が存在したが、戦国時代には、この辺りにも砦や城が幾つも構えられ、泉殿の跡には織田信長の宿館が作られた。これらは本能寺の変の際にもその舞台の一つとなったと伝える。
 江戸時代になると、金座・銀座などが集中して金融街へと変貌し、その賑わいは、現在でも近代建築の多く残る三条通や烏丸通のオフィスビル群に見ることができる。
The area around this intersection is an archaeological named Karasuma OikeIseki. Many earthenwares dating from final phase of Jomon period to Kofun period(B.C.1000-A.D.600)are found here. In Heian period(A.D.794-1185)this area was a residential area for the aristocrat. Retired Emperor Gotoba had a mansion caiied "Oshikoji-dono" with a famous garden and a pond. This area continued to be prestigious residential area during the following eras and became a center of financial business in Edo period(A.D.1600-1868). The prosperoty and butle of the area is seen along the Sanjo and Karasuma streets where modern architecture of Meiji period(A.D.1868-1912)still remain.
CN5周年記念
京都烏丸ライオンズクラブ寄贈
2000.11.22
京都市
調 査2003年8月20日
備 考

上へ

[HOME]