柳の水

NA118

やなぎのみず
石碑石碑周辺

 この地は,平安時代末期には崇徳院(1119〜64)の御所があった所で,清泉があり柳水として有名で千利休(1522〜91)も茶の湯に用い,側に柳樹を植え直接陽が射すのを避けたと伝える。近世初期には,織田信長の息信雄(1558〜1630)がこの地に住し,寛永初年に北野五辻に移った後,肥後加藤家京邸となった。貞享年間(1684〜7)以降明治3年(1870)までこの地に徳川御三家の一つ,紀州和歌山藩の京邸があった。この石標は,名水柳の水を示すものである。なお,この地を柳水町というのは,この柳の水に因むものである。

所在地中京区西洞院通三条下る東側
位置座標北緯35度00分28.5秒/東経135度45分18.8秒(世界測地系)
建立年2001年
建立者馬場孝造
寸 法高65×幅76×奥行14cm
碑 文
[東]
この柳水町あたりの地は、平安時代末期
には崇徳院の御所があった所で、「今鏡」
に「崇徳永治元年新院十二月」九日ぞ三条西ノ洞院へ渡ら   【「   」内双行】
せ給ふ、太上天皇の尊号をたてまつら
せ給」とある。また、近世初期には、織田
信長の子、信雄の屋敷になっていたよ
うで、「雍州府志」は「在西洞院三条
南元内府織田信雄公之宅井也、斯水至
清冷也、植柳於井上避日色、因号柳の水、
千利休専賞此水点茶、故茶人無不汲之」
此水至って清冷なり、千利休此水を沸
してもっぱら茶の水とす。町名は、寛
永十四年(一六三七)洛中絵図に「柳
水町」とみえ、その後、変化はない。
なおこの邸跡は紀州徳川氏の京都屋敷
となった。
二〇〇一年三月吉日   施主   馬場孝造
調 査2002年5月14日
備 考

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